第二十四話-1

 任務の無い日だった。いつものように演習場で、鴎と一緒に刀を手に飛んだ。風の使い方も、大分、うまくなれたと思う。

 演習を終えた夕刻、寮へとつづく道を燕は鴎と並んで歩いていた。黄昏たそがれの街は薄闇に沈み、坂の下、商店街の方を見遣れば、ぽつぽつと橙の灯りがともりはじめている。さらに視線を社の方へと移せば、ある一帯だけ灯りの色は橙から赤へと変わり、数を増し密になっているのが目に入る。社のおひざもと、影のように広がる一角。《籠》の灯火は遠くから見ても、滴るようにどこまでも赤く、ひたひたと満ちる闇夜に滲む。

 街の灯りから目をらし、燕は何気なく空を見上げた。

「……鴎……」

 足を、止めた。

 燕の声に、温度は無かった。怪訝と、途惑いと、いささかのおそれの色を含んだ、硬い声だった。

「燕?」

 鴎は燕を振り返る。すうっと見ひらいた瞳で、燕は食い入るように空を見上げていた。燕の視線の先を辿って空を見遣った鴎は、その刹那、呼吸を止めた。

「雲が……」

 方舟の向かう先、層状に薄く広がった高積雲の一点に、円く、ぽっかりと口をあけた闇があった。《かみさまの罠》と呼ばれる、均一に広がった雲の一部に穴があく現象自体は、さほど珍しいことではなかった。だからこそ、それを確実に回避するために、順番に命じられる羽人の任務の中に雲の動向を見定める任務が盛り込まれていたはずだった。

 方舟は、まっすぐに、《かみさまの罠》へと向かっていく。

「社は……操縦室は、気づいていないのか……?」

 顔を見合わせて、頷き合う。地面を蹴って、飛び立つ。社へ。早く、はやく、知らせなければ。

 けれど。

「あっ……」

 燕が小さく声をあげた。雲の穴の中心に、垂れ下がるように生まれた巻雲、その陰から、ちらちらと瞬く、青い光が見えた。星の光とは違う、人々に終焉をもたらす光。

 かみさまが、この方舟を見つけた。



*



「何のつもりだ無礼者……っ!」

 無人の石牢に、榊の声が響く。夕餉ゆうげの席に向かうべく部屋を出た途端、突然何人ものおとなの男に取り囲まれた。交叉する〝榊〟の葉をかたどった紋章を胸につけた、社直属の部隊だった。本来ならば最も守るべき人間を、何故、捕えるのか。

「お赦しください、榊様。貴女様を、守るためです」

 押さえつけた榊の手足にかせを嵌めながら、男のひとりが言った。

「方舟が、かみさまに……」

 絞り出すように呟かれた男の言葉に、榊は瞳をみひらいた。何故。なぜ。

「既に、戦闘機総出で、抵抗を試みています。上は危険です。どうか、お静かに」

 男の手が離れる。榊の手首の鎖を、頭上の壁に繋いで。

「ふざけるな……何故この方舟が見つかったのだ……! このような拘束……する必要がどこにあるというのだ……っ!」

「監禁させていただくのは、邪魔をされては面倒だからですよ」

 かつん、と高い靴音が響いて、男たちの向こうに、ゆらりと小柄な影が現れた。

「……橘……?」

「なかなかの御姿ですね、榊様」

 薄い笑みを浮かべて、橘は、静かに榊を見下ろした。

「この牢は、罪人のための牢ではありません。研究棟の真下に造らせた、検体を搬入するための特別なおりです。方舟の中で、最も堅固な……最も安全な場所なのですよ」

 格子戸をすっとくぐって、橘は榊の前に立った。愕然とした面持ちで橘をみつめながら、榊は喉の奥から声を絞り出す。

「邪魔とは何だ……そなたは、なにを、するつもりなのだ……」

「薄々、気がついておられるでしょうに」

 橘の口角が、笑みのかたちに歪む。瞠目した瞳に鋭さを宿し、榊は唇を震わせた。

「あれを……使うつもりか」

「いかにも」

「ならぬ!」

 まだ早い。まだ、制御が、充分ではない。橘も、そのことを知っているはずなのに。

「わかっております。ですが、今使わずに、いつ使うのですか。このまま、戦闘機が全滅していくのを、黙って見ていろと仰るのですか」

「あれはまだ不完全だ。何が起こるか、わからない」

「ある程度の制御は実証済みです」

「実証……?」

 ぞくり。背中が冷えた。まさか。まさか。

「橘……そなた……花籠の大見世が炎上した日、開かれていた宴を、当夜になって、欠席していたな」

「ええ」

「花籠の大火災は……事故ではなかったのか……?」

 縋るような、祈るようなまなざしで、榊は、橘をみつめた。否定してほしかった。頼むから。そんなこと、するわけがないと、首を振ってくれ。頷かないでくれ。お願いだから。

 榊の瞳を見下ろして、橘は、あわれむような微笑を向けた。

「あの炎の夜をさかいに、貴女様を取り巻くおとなの敵は、かなり少なくなったでしょう。おかげで、貴女様の権力は、以前よりずっと、揺らぎないものになったはずです。あの大見世で遊ぶような権力者どもの多くを、一斉に抹消できたのですから」

「っ……ひとでなし!」

 喉が破れるほどに、榊は叫んだ。信じていたのに。橘、そなただけは……おまえだけは、信じていたのに。

「心外ですね。あの楼閣以外は焼くなという命令は、ちゃんと忠実に遂行されたというのに……色香に群がる醜悪な大人と、彼らの欲をすす蔓延はびこる毒々しい花、燃えたところで――」

「だまれ!」

 橘の言葉を、榊は遮った。聞きたくなかった。手首に嵌められた枷が食い込む。耳を塞ぎたかった。唇の震えを噛みしめて抑える。俯いて、溜めた息を荒く吐き、榊は再び橘を見据えた。

「そう何度もうまくいくと思うな。柊が、絶対に許しはしない」

「またあの男ですか」

 かつん、と高いかかとの音が、冷たく響いた。衣擦れの音。橘の吐息が唇にかかる。つづいて触れた、ひとひらの熱。奪われる、呼吸と思考。金縛りにあったように動かない、動けない、榊の体。牙の砦を閉ざす前に、口の中に、とろりと、橘の蜜が流れ込む。

「子供が大人にかなうと、お思いですか」

 くく、と喉の奥で、橘は笑った。かすかに粘性の音を立てて、橘の唇が離れていく。透明な蜜が、橘と榊の唇を繋ぐように、つっと糸を引く。赤い舌で、ぺろりとそれを舐めとって、橘はさらに笑みを深めた。

「子供なんてね、所詮、大人の道具でしかないのですよ、榊様。大人に媚び、縋り、使われ、やっと生かされ、消費されてゆく、非力で矮小な生き物……もちろん、貴女もね」

 榊の打袴の裾を絡げ、橘の手が、榊のももに触れた。ゆっくりと撫で上げる。死人のように冷たい手だった。ひっと息を呑み、榊は唇を噛みしめる。声の代わりに、手足の枷が、かしゃんと虚しく軋んだ悲鳴をあげた。

「本殿を抜け出しあの男に会いにゆくのを、慣れたものだと、仰ったそうですね。私がどれだけ根回しし、それを可能にしてさしあげていたのも知らずに。ねえ榊様。仮にも帝ともあろう御方が、せいぜい身なりを変えたくらいで自由に外出ができると本気で思っていらっしゃったのですか。おめでたい。実に」

 そんな愚かで幼稚で可愛い榊様が私は大好きですよ、と橘は笑った。ぞっとするほど、穏やかな笑みだった。

「既に、別の部隊を、あの男のもとへ派遣しております。さいは投げられた。榊様は此処で、全てが終わるのを、待っていれば良いのです」

 大人に任せて。貴女は、まだ子供なのですから。

 そう言い置いて、橘は、すっと体を離した。

 かつん、と返されるきびす。遠ざかる、橘の背中。壁に繋がれた榊は膝を折ることもできなかった。ただ唇を噛んだ。血が滲み、裸足の爪先に点々と赤い花弁を散らす。

「……柊……」

 呼ぶ声は、ただ冷たい石牢の床に墜ち、誰にも届くことはなかった。

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