第十一話

 昼と夜とで、これほど表情を変える街は初めてだった。

 そびえる大門。固く閉ざされた木の扉には、中にひしめく楼閣と同じく、黒うるしが丁寧に塗られている。雲間から僅かに射す、白い朝の光を受けて、それはむきだしの内臓のようにてらてらと輝いていた。昨日の夜は普通に入れたのに。夜のあいだだけ開く門なのだろうか。同じ方舟の街なのに、なぜ、ここだけ、隔離するようなことをしているのだろう。

(おとなの遊び場だと言っていたが……)

 飛んで入ろうか、と、頭の片隅で一瞬考えて、やめた。羽人の力は《社》のためにあれと決められている。上にばれたら厄介だった。

「入れてやろうか、坊主」

 門の前で考えあぐねていると、くいくいと左の袖を引かれた。おれとあまり背丈の変わらない、緑の頭巾ずきんを被った初老の男だった。行商人だろうか、曲がった背中に、所々穴のあいた大きな木箱を背負っていた。

「中に兄貴でもいるのかい」

「兄貴? いや、兄貴はいないけど、会いたい人間がいる」

「結構結構」

 子供かと思ったら坊主も隅に置けないねえ、と、よくわからないことを言いながら、男は、にぃと口角を上げ、三日月形の笑みを描いた。

「客は出るはやすし入るはかたしってね。門をくぐるまで、俺の従者ってことにしておいてやるよ。銅貨一枚で手を打つが、どうだい?」

 なぜ中へ入るのにそんなことが必要なのか。閉ざされた門と男を見比べる。男の笑みが深くなった。三日月形にひらいた口に押し込んでやりたい衝動を抑え、おれは男の掌に銅貨を乗せた。交渉成立だった。

 おれは、この街自体にも興味を持ちはじめていた。

 大門は、中の楼閣が開店すると同時にひらくらしい。それまでに出入りできるのは楼閣を相手に商売をする人間たちだけで、脇の小さな通用口を使うようだった。門の両側には番人がいて、男は、通行証だと言って黄ばんだ薄い紙を見せていた。昨日の夜は気付かなかったが、門からは高い土塀が続いていた。内側に向かってかわらの返しがつけられたその塀に、ぐるりと囲われ、隔離された街。

 立ち止まって辺りを見回す。静まり返った朝の街。さっきの緑の頭巾を被った男の姿も、いつのまにか消えていた。そびえる楼閣も、火の消えた赤い提燈ちょうちんも、その赤を引き立てる黒うるしの壁も昨夜のままなのに、まるで夢から醒めたように白々としていた。朝につぼみを閉じ、夜に花開く街。そんな気がした。

 途中、何人かの行商人とすれ違いながら、昨日の楼閣を探して大通りを歩いていく。赤い提燈も、黒い壁も、白い空の下で奇妙に余所余所しく、排他的な雰囲気をまとっていた。あらゆる混沌を内包していた昨夜の熱気が嘘のようだった。

(確か、この店……)

 見覚えのある建物の前で、おれは足を止めた。漆塗りの格子窓が何段もつづく楼閣だった。店の手前には大通りに沿うように水路が走っていて、小さな朱塗りの橋が架けられている。ふと視線を感じて振り向くと、水路を挟んだすぐ隣の店に、ぼろをまとった幼い少年が何人も、おとなの女に連れられて入っていく。しんがりをつとめていた少年が、ぞっとするほど無表情な目でこちらを眺めていた。なんだか自分が、ひどく場違いな存在に思えた。おとなのための街。薄々感じていた異様さが胸に押し寄せてくる。無意識に後ずさり、きびすを返しかけたとき、店の中から、若い女の声が飛んできた。

「誰かのお使いかい?」

 長く編んだ髪をくるりと高くまげに整えた、恰幅かっぷくの良い女だった。特におれをとがめる様子も、いぶかる色もなく、ただ淡々とした声と面持ちをしていた。

「えっ、いや、おれは……」

 口ごもる。視線が落ちる。どうする。放り出された昨日の夜を思い出して、爪先に力をこめた、そのとき、

「ぼくの知り合いだよ」

 女のうしろから、透きとおったこどもの声が聞こえた。鴎と同じ声だった。顔を上げると、店の奥から、おれより幾つか年下だろう少年が静かに歩いてくる。紺色の、かすりの浴衣を着ていた。まぎれもない、昨日の夜のこどもだった。ゆるく後ろで束ねた黒髪。耳元にかかる後れ毛が白い頬を引き立てる。

「あんたの? 珍しいね」

 高く結った髷をゆらして、女は、おれと彼を見比べると、目をぱちぱちさせた。彼は、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、かるく肩をすくめてみせる。移ろう視線。すっと細めた彼の瞳が、おれを捉えた。黒く澄んだ、底なしの淵のような瞳だった。

「上がって。ぼくの部屋へ行こう」



*



「ぼくは辰星。きみは?」

「おれは……鴉」

 彼の部屋は、階段を上がり、長い廊下を進んだ先にあった。楼閣は、古びてはいるけれど手入れは行き届いていて、外側の漆も内側の土壁も、何度も丁寧に塗り直されたあとがあったし、廊下の木の床も艶々とよく磨かれていて、裸足でも難なく歩くことができた。見上げれば、天井は、赤と緑と青を組み合わせて描かれた、豪華で緻密な文様に彩られている。木材に漆、数々の塗料。貴重なはずの資材を、惜しみなく贅沢に使った佇まい。おれがこの三年間歩いてきた廃墟同然の大通りとは、何もかもが違っていた。

「悪いな」

「何が?」

「知り合いだなんて、嘘つかせて」

「嘘じゃないよ。昨日の夜に、知り合いになったでしょう?」

 廊下を歩きながら、彼はおれを振り返り、ふわりと見上げて、くすりと笑った。

 ここがぼくの部屋だよ、と通されたのは、六畳くらいのこぢんまりとした部屋だった。左奥にはふすま。右奥には窓があり、その下には行燈あんどん文机ふづくえ、小さな木棚に茶器が一組。そして正面には、白地に藍色で七宝模様の描かれた提燈ちょうちんがひとつ下がった、黒漆の露台。

「きみは、この街の名前を知っている?」

 座って、と、露台の傍の座布団をすすめて、彼は、茶器の盆を手にとった。おれの斜め向かいに座り、茶具を並べていく。彼の所作には、無駄な動きがひとつもなかった。なにげない仕草のひとつひとつに至るまで、指先から爪先まで完璧に整えられている。洗練をかさねた演技のように。自然と彼の指先を、瞳が追いかけてしまうくらいに。

「この街に、名前があるのか?」

 聞き返すと、彼は小さく頷いて、ことりと首をかたむけた。

「きみ、この方舟の生まれじゃないね」

「ああ、三年前に不時着した」

「戦闘機だったんだね」

「……今は輸送機だけどな」

 返答に、少し間をつくってしまった。その一瞬のおれの躊躇ためらいを、彼はさとく読みとったらしい。かるく目を伏せて、おれの前に白い陶器の茶杯を置いた。面持ちは柔らかかった。どこか柊の微笑み方に似ていた。穏やかな声で、彼は続けた。

「それなら、知らないのも無理ないね。でも、これからは覚えておいたほうがいい。この街は、《かご》と呼ばれてる。《社》が抱える、おとなのための遊びの街だよ」

「遊び?」

「そう。おとなたちが、男で遊ぶのがここ、街の左半分にあたる《ほしかご》で、女で遊ぶのが、あとの半分、塀を隔てた向こうに広がる《はなかご》。きみに、おとなになった身内はいる?」

「え……ああ、兄貴分なら、いるけど……?」

「そのひとに、初冠ういこうぶりうたげはあった?」

「初冠?」

 聴き慣れない単語におれは眉をひそめる。視線を外し、記憶を辿る。おれが拾われたとき、柊は既におとなだったけれど、社の上層部の人間だから、きっとそういう催事のようなものはひととおり経験しているだろう。

「多分、あったと思う」

「なら、いつか、きみは、望む望まざるにかかわらず、お客としてぼくの前に立つかもしれない。この方舟ではね、そこそこの階級のひとたちは、おとなになった最初の誕生日を初冠として、《花籠》か《星籠》、どちらかの《籠》で宴をひらくのがならわしだから」

 もちろん初冠以降もふつうに遊びに来るおとながほとんどだけどね、と、彼はちいさく笑って言い添えた。

「慣わし……」

 心臓が、いやな跳ね方をした。これ以上きいてはいけない。頭の奥が、警鐘を鳴らしはじめた。なのに、おれの舌は、唇は、ひとりでに問いかけを生んでいた。

「なら、遊びって、いうのは――」

 言葉はつづかなかった。彼の手が、瞳が、おれの声を、遮っていた。かちゃん、と微かにぶつかる茶器の音。唇に、ふわりと、彼の吐息がかかる。頭のうしろに添えられた右手。瞬きひとつ数えるあいだに、詰められた距離。肉薄する、引き込むような夜空の瞳。花弁に似た白い左手が、包みこむように頬に触れる。

「試してみる?」

 くすりと微笑む唇。ざわり。肌がさざめいた。まぎれもない、戦慄だった。

「や……」

 咽喉がはりついて、うまく声が出せなかった。やめろ、と、言いたかった。時間が刹那、止まった気がした。

 覗きこむ深淵の瞳が、ふっと瞬きを打った、瞬間、花のつるのように絡みついていた彼の手が、明るい笑い声とともに、するりと解けた。

「なんてね、冗談。びっくりした?」

 ひらりと離れる体。無邪気に微笑む白い頬。からかわれたとわかっても、なんだか憎めなかった。

 彼は、お詫びだと言って、茶杯に、淡い緑の液体を注いだ。ほんのりと甘い花の香りがした。

茉莉まつりを使った、水出しのお茶だよ」

 ぼくのお気に入りなんだ、と、彼はすすめた。緑茶に花を合わせて香りを移したもののようだった。やわらかな苦みとともに、ふわりと広がる甘み。

「……美味いな」

「ぼくのとっておきだもの」

 自然とこぼれる笑み。なんだかとても、穏やかな気分だった。頭がぼんやりする。おれはここに何をしに来たのだっけ?

 ふと、露台のまんなかに、小さな鉢植えが置かれているのが目にとまった。夕顔だろうか、凛と白いつぼみこうべれている。ああこれ? と、気付いた彼が振り返る。

「ぼくのきょうだいがくれたんだ。花を育てるのが好きなんだって。ぼくはまだ見たことがないけれど、寮の露台にはたくさんの植木鉢が並んでいるんだって」

 うたうように、彼は言った。きょうだい。その言葉に、かすみが晴れるように、さっと思考が鮮明になる。

「双子、なのか……?」

「そうだよ」

 彼はあっさりと頷いた。どこか嬉しそうな声色だった。漆黒の瞳が、おれをみつめる。鴎の瞳が、澄みきった真昼の空の色なら、こいつの瞳は、果てしなく深い夜空の色だった。

「ねえ、鴉」

 こと、と茶器を置いて、辰星は畳んだ膝の上で両手を組んだ。感情を抑えるように、拳をつくる。

「ひとつだけ忘れないで。きみの望みは、ぼくのいちばん大切な存在によって守られているんだってこと」


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