第二十四話-6

 崩れかけた甲板の上で、鴎は目をあけた。硬い金属の手摺てすりが、背中を支えている。

 倒れたところを、誰かが、抱き起こしてくれたみたいに。

(誰が……?)

 視線をめぐらす。最初に目に入ったのは、鴎の周りに倒れている、白いこどもたち。眠るように瞼を下ろしている。そうだ……と鴎はかすみのかかる記憶を手繰る。空で……白いこどもたちの動きが止まって、墜ちていくのを見届けたところまでは憶えている。……見届けたところで、自分も力尽きたのか。

(鬼ごっこ、ぼくの勝ちだ)

 いや、違うな、と鴎は胸中で首を振る。

(ぼくと、燕の、勝ちだ)

 燕の、おかげだ。

「なに笑ってんだよ」

 余裕だな、と苦笑する声が、かたわらから聞こえた。深みのある、懐かしい声だった。

からす……」

「今はつるばみ。医師の見習いだ」

 隻眼の瞳が、久しぶりだな鴎、と微笑む。

「どうして、ここに?」

「逆だよ。俺が先に居て、お前が上から墜ちてきたんだ」

 ここは、いつか彼が最初に、この方舟に不時着した場所。

 そして、いつか鴎と最後に、分かたれた場所。

「相変わらず、ばかかってくらい無茶するな、お前は」

「いつかのあなたより、きっとましですよ」

 顔を見合わせて、微笑み合う。

 かみさまの爪がえぐった肩の裂傷も、白いこどもの炎が掠めた脚の火傷も、縫い合わされ布が巻かれ、応急処置がされていた。

「これ、あなたが?」

 尋ねると、「治療なんて言えたものじゃないけどな」と、彼は肩をすくめながら、おとなびた色で、苦く笑った。

 甲板から続く階段の下には、多くの人々がひしめいていた。

「俺が誘導したんだ。いちばん火の手の回っていない場所だったから。救護所は破壊されちまったけど、道具はいくつか持ち出せたし、応急手当くらいはできるだろ」

 軽く眼下に視線を遣って、彼は言った。そのまなざしは優しかった。慈しむ色さえ帯びていた。わずらびとをみる医師の瞳だ、と鴎は思った。

 手摺を支えに、鴎は立ち上がった。最後の仕事が残っていた。

 瞼を閉じて、こころなしか丸まって、眠るように横たわる、白いこども。その傍に、鴎はひざまずいた。すっと、こどもの胸に手を伸ばす。一拍、間があった。一呼吸の後、鴎はずぶりと、指を沈めた。白いこどもの体は、寒天のようにやわらかかった。未完成だった。

 白いこどもたちの胸の奥から、鴎は静かに青い光を抜き取っていく。鴎の手の中に易々やすやすとおさまるくらいの、小さな青い石。

「浮力石の結晶か……?」

 隣で彼が、鴎の手をみつめて呟く。澄みきった青。いつか、柊から贈られた祝いの根付を、思い出していた。かたちを変え、祈りを込めて、花籠の少女に宛てた、光のかんざし……。

 これが、核なのか。こんな小さな石ころで、この白いこどもたちは動いていたというのか。

 鴎は何も言わなかった。ただ静かに、そっと、手をひらいた。白いこどもたちの体から抜き取られた五つの石が、鴎の掌から、ふわりと、飛び立つ。夜空の彼方へ、昇っていく。きらきらと、星のように。

 水球に還るのだろうか。かみさまの核に、なるのだろうか。

「鴎」

 夜空に消えた青い光を見届けて、彼は息を吐いて、言った。

「お別れだ」

 言葉は静かだった。細雨の雫のようにぽつりと、ささくれた甲板を穏やかに打った。

「この方舟は……動力の供給を、失った」

 そう言って力なく笑った彼に、鴎の喉が、ひゅ、と鳴いた。名前を呼ぼうとして、でも、呼ぶべき名前を奏でられなかった。苦さを深めて、彼は微笑む。

「俺は、もう飛べない。おとなに、なったからな……だから、さいごまで、〝橡〟として、ここでできることをやる」

 返されるきびす。一段、二段、階段を下りたところで、彼は半分だけ振り返った。いつか、自分を助けて逝った輸送機の少女の言葉を、彼は噛みしめ、鴎に託す。

「お前は、まだ飛べる。だから、飛べ、鴎」



*



 誰かに名前を呼ばれた気がして、少女は、ふっと目をあけた。……目を、あけられた……?

(わたしの体……まだ、ある、の……?)

 暗い、けれど、完全な闇ではなかった。そろそろと、左手を持ちあげる。かじかみ、痺れた手。でも、ちゃんと動く。動かせる。血塗れだったけれど、けてはいなかった。

 周りは瓦礫がれきの海だった。水球は消え、黒い石の壁も天井も、融けて、崩れ落ちていた。けれど、少女の倒れた場所だけは、瓦礫の雨も、全てを灼き尽くす炎の矢も、降り注ぐことなく、

 まぬがれていた。

(……どうして……)

 ゆっくりと、体を起こす。胸の上から、澄んだ音を奏でて、何かが床へと滑り落ちた。簪だった。青い石が、粉々に砕けて無くなっていた。

(……お守り……)

 すくいあげるように、両手で拾う。

(守ってくれたって、いうの……)

 簪を握る少女の手に、ぽつりと透明な光が落ちた。涙だった。いつ以来だろう。瞼の奥で凍りついていた涙が、胸の奥に閉ざされていた心が、雪解け水のように、内側から滲んで、溢れて、流れ出ていく。あえかな光を抱いて、きらきらと、少女の頬を伝っていく。

 せきが切れると、もう止まらなかった。瞳を閉じて、細い肩を震わせて、簪を握りしめて、少女は泣きじゃくった。

(まだだって……まだ、死ぬなって……)

 ねえ……


 生きろって、いうの……?


 こたえは返らない。ただ静かだった。音の無い暗闇の中で、少女は泣きつづけた。ひとりきりで。涙をあばいて。心を吐いて。

 どれくらい、泣いただろう。廃墟に響く少女の声が止んだ。涙も心も放ち尽くして、闇の中、少女は瞼のとばりをひらく。

 積み重なる瓦礫の山のはるか上から、細く淡く、光が射していた。何にも遮られることなく、ふるわれることなく、降り注ぐ、まっすぐな光。雲に閉ざされた方舟には届くことのなかった、白い、しろい、月の光。

 凛と涼やかに、それでいて柔らかく優しく降りるその光は、どこか姉様の雰囲気に似ていた。

(わたしは……)

 疼く足を引きずりながら、少女は立ち上がった。瓦礫の山に、手をかける。光の先を見上げて。

(まだ、歩ける)

 月の光をしるべに、一歩、一歩、少女は進んだ。暗闇の中から、光の射す外へと向かって。

 腕は重く、痺れていた。震える足は今にも崩れそうだった。体中が軋んで、どこが痛いのかも、もう定められない。

 けれど、

(わたしの体、まだ動ける)

 狭い瓦礫の隙間を、這い上がっていく。

(わたしの力、まだ無くなってない)

 

 わたしには、まだ、この命という需要がある。

 

 崩れ落ちた天井は、同時に出口を生んでいた。少女の手が、月の光に触れる。暗闇の外に、指先が届く。

 ふわり。

 少女の手に、ひとひらのぬくもりが重なった。光の中から、華奢な腕が差し出されていた。細いけれど、かっしりとした、力強い腕だった。少女の手を握り、いたわるように引き上げる。あたたかい両手だった。

「鴎……」

 見上げる少女の体を支えて、鴎は淡く微笑んだ。どこか泣きそうな色をしていた。

 応えるように、少女も、かすかにわらった。かなしそうに、わらった。

 青白い朝の光が、夜の闇を薄めていく。方舟を照らしていく。雲に遮られない陽の光。最初で最後の、光。

 滅びのときが、近づいていた。

 方舟が、ゆっくりと傾いでいく。軋みながら、段々と高度を下げていく。悼むような、か細い悲鳴に似た音を奏でて。

「ねえ、鴎」

 鴎の手を握り返して、少女は鴎をまっすぐにみつめた。

「賭けを、しましょう」

「賭け?」

 少女は頷く。微笑を、いささかも崩さないで。

「そう。ここから、南に、まっすぐに飛ぶの。他の方舟に辿りつくことができたなら、そこに不時着。辿りつけなかったり、辿りつく前にわたしの力が果てたなら……」

「そのときは?」

「……いつかの、あの氷の原に、わたしの体も、眠らせてくれる?」

 鴎をみつめる少女の瞳は、幼く潤んでいた。まなざしは儚く、壊れそうでいて、けれどゆらぎなかった。涙と引換えに伝えた願いは、切々と澄んだ音色で鴎の心を打った。

「ぼくも、同じことを考えていた」

 瞳を交わして、願い合う。託し合う。互いが互いの、願い星だった。手を結って、ふたり、空を見上げる。雲ひとつない、黎明の空を。

「行こう」

 繋ぎ合った手に、力をこめる。風に乗って、ふわりと、飛び立つ。

「鴎……」

「うん?」

 静謐せいひつな朝の風に目を細めながら、少女は微笑んだ。

「辿りつけた方舟に、桜の木はあるかしら」

 穏やかに、うたうように、慈しむように、透きとおった冬の朝の青をみつめて。

「たとえ無かったとしても、ぼくが、育ててみせるよ」

 冷たい少女の手を握る。

 夜が終わり、空はひたすらに、青かった。

 罪も罰も、願いも祈りも、心も命も、抱えて、どこまでも、透明に、青く、青く、澄んでいた。

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