第二十四話-5

 これはきっと罰なのだ。暗く冷たい檻の中で、榊はひたひたと迫る足音に、ふっと口もとだけ自嘲の笑みに歪めた。

 光の届かない回廊が、薄ぼんやりと明るくなる。月の光にも似た、闇を払う白い光。終焉をもたらす、光。

「来たか……お主、何番目の《子》だ? と言っても、もう、わからぬか」

 ぺたり。裸足の爪先が榊のほうを向く。空っぽの眼窩がんかが榊をみつめる。内側から光を放っているせいでわかりづらいけれど、こうしてよくみると、あどけなくも整った顔立ちをしていた。涼やかな目元、すっととおった鼻筋、薄い口唇。ああ、まさにあの少年の生き写しだ。さすがだな、柊は。

 鉄柵を挟んで相対する。やがて白いこどもが生み出す滅びの炎が、ひとおもいに榊を灼くだろう。骨ひとつ、遺すことなく。

 そのはずだったのに。

「何……?」

 炎は吹かれなかった。崩れるように、白いこどもはその場に倒れた。胸に灯る青い光が消えていく。

 その後ろに、立っていたのは。

「そなた……」

 血に染まった衣。華奢な体。細い腕に抜き身の刀。肩で息をしながら、小柄な少女が顔を上げて、檻を見据えた。

 ふらり。力を失いかけた足で、少女は鉄柵の前へと歩く。淡々とした、無表情な瞳が、檻に巻きつけられた鎖を、嵌められた錠を、静かに見下ろす。刀を鞘におさめて、少女は錠に両手をかざした。ふわり。榊の頬を風が撫でる。閉ざされた此処ここは、空気の流れすら存在しなかったはずなのに。

(この娘が……風を生んでいるのか……?)

 刹那、少女が歯を食いしばる気配がして、がしゃん、と金属の軋む音が空気を裂いた。少女の細い体がよろける。

「なにを、しておるのだ……?」

 榊の声が、震えた。

「ここを、あけます」

 少女は静かに答えた。再び、錠に両手をかざして。

「やめろ……」

 榊の声が、懇願の色を帯びて、黒い石の壁に反響する。

 少女はやめない。再び、衝撃音。錠はまだ、砕けない。

「やめろ! わらわは……っ、そなたの居た楼を……焼いた人間のひとりなのだぞ……!」

 少女はやめない。滴る血にも構わずに、何度でも、何度でも、錠が壊れるまで。榊は叫ぶ。いっそ殺せと。罰をくれと。

 やがて一際鋭い金属音とともに、檻の戸が内側にひらいた。足を引きずるようにして、少女が入ってくる。榊の手足を壁に繋いだ鎖を一瞥して、刀を振りかざす。これくらいの細さなら、なんとか刀で砕くことができる。

「……何故……」

 崩れるように膝をついた少女の傍らに、戒めを解かれた榊も座り込んだ。

「何故……助けたのだ……」

 少女は、伏せた顔を上げなかった。表情を窺わせないまま、首を横に振り、苦しげな息の下で言った。

「もう……なにかを、だれかを、憎むことにも疲れただけ……」

 刀を杖代わりに、少女は立ち上がった。行かなきゃ……。

 檻から出る刹那、少女は榊を振り返り、一言だけつづけた。

「死にたいのなら、勝手に死ねばいい。容易たやすく楽になりたいのなら、そうすればいい」

 ただわたしは、わたし自身にそれをゆるさなかった。

 言い放つ少女の瞳は、榊と同じ、どこまでも透きとおった青。榊が一度も飛ぶことのなかった、空の色だった。

「さよなら」

 言い置いた少女の声は、冷たくも澄んでいた。うらみの熱も、憎しみの影も、なにもなかった。



*



 簪が導く光を辿たどり、燕は入り組んだ廊下の最奥に行き着いた。分厚い黒い石の扉の一角が、内側から融かされ、破られていた。あの白いこどもがあけたのだろうか。穴は、ちょうど、こどもの背丈くらいだった。かるく屈んで、燕は穴をくぐった。

 巨大な青い水球が、闇に包まれた部屋の中に浮かんでいた。眩しくはない、けれど明るい青い光を抱き、艶やかな黒い壁を、天井を、床を、水球は煌々こうこうと照らし出している。簪の青い石が放つ光と、同じ色。簪の光は、まっすぐに、水球の中心を指していた。正確には、水球の中央に浮かぶ、少年の胸を。

「……鴎……?」

 違う、鴎じゃない。鴎よりも、もっと幼い……数年前の、鴎?

 閉ざされた少年の瞼は、不自然に窪んでいた。

「あなた……両眼が無いのね」

 水球を見上げて、燕は呟いた。

 不思議な水球だった。流れ落ちることもなく、完璧な球形を保ちながら、ゆるやかに循環している。表面に僅かに生まれる波紋が、光の陰影を生み、ゆらゆらと周りに水の綾を描く。

 ふと、水球の上から、光が二滴、落ちてきた。青い光の雫。見上げると、大きな硝子の漏斗ろうとが吊られていて、光はそこから降りてきていた。

 青い石だった。漏斗から放たれた、青い光を宿す小さな石がふたつ、音もなく水球の中に沈んでいく。

 少年が、ゆっくりと振り仰いだ。ひなのように、青い石を待ち受けて、こくん、と呑み干す。そうしてくるりと胎児のように丸まって、ゆらりと水底に沈んだ。

 やがて少年の背中から、一対の白い光が芽吹いた。肩甲骨の辺りから、若葉のように。それは、翼だった。

 一点に青い光を宿した白い翼は、根元から千切れ、ふわっと水球の中に浮かんだ。それは徐々にかたちを変え、少年と同じ姿をとっていく。胸に青い石の核を抱いた、双子の、こども。

 少年は、ゆっくりと、体を起こした。静かに水を蹴り、青い水球の中を、まるで空を飛ぶように軽やかに音もなく移動して、燕の前に浮かぶ。水面を挟んで向かい合う。からっぽの眼窩で、少年は燕をみつめる。

「泣いているの……?」

 左手を、伸ばした。ちゃぷ、と水面は僅かにゆらいだものの、燕の手を拒むことはなかった。そのまま静かに、水球の中へ。

 あたたかい水だった。なんだか懐かしいような心地がした。少年を、抱きしめた。そうしなければならないような気がした。心の奥から、そうしたいという衝動が強くつよく湧き上がった。いつか瓦礫の下で泣き叫ぶ命を抱えたときのように。

 少年の腕が、そっと、燕の背中にまわった。甘えるように、縋るように、あどけない力で、燕を抱きしめた。

 少年の体は冷たかった。心臓の音も、感じなかった。

 抱きしめたまま、燕は簪を握る右手に力をこめた。少年も、燕を抱き寄せる腕をきつくした。水球の中に、白い光が満ちる。青から白へ、水球が色を変えていく。

 眠ろう、一緒に。

 膨れ上がる白い光の中、燕は簪の先を、少年の背中にあてた。ちょうど、心臓の真上に。少年は、それをただ、受けていた。いささかの身じろぎもなく、静かに委ねていた。

 おやすみ。

 光が放たれるのと、燕が簪を突き立てるのは、同時だった。応え合うように、頷き合うように。

 破裂する白い光が、四方八方に矢のように飛び散る。

 全てを融かし尽くす光。終焉の光。とても、綺麗な、光。

 これでいい。これで、いい。

 この体、全部灼いてくれる。髪も眼も、肌も骨も、心も命も、なにもかも。ひとつだって残さないで。

 瞳を閉じて、燕は微笑んだ。

 きっと、やっと、微笑むことができていた。

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