第八話

 橡様のお家からし紙が届けられたのは、橡様がお医者様と一緒に挨拶に来られてから一週間後のことだった。

 予想は裏切られなかった。指し紙に書かれていたのは、姉様の名前だった。楼主は「よくやった」と素直に喜び、姐やたちは「やっぱりねえ」と苦笑しながらも、「おめでとう」と、お祝いの言葉を姉様に贈った。

 姉様だけが、笑っていなかった。みんなの前では「光栄です」と微笑んでいたけれど、心はそこには無くて、ほんとうは笑顔なんて浮かべていない。そのことに気付いていたのはわたしだけだと思うのは、わたしの自惚うぬぼれだろうか。

『姉様は、橡様がお嫌いなの?』

 部屋に戻ってから、わたしは姉様にこっそり尋ねてみた。いいえ、と姉様はゆるく首を振って、長いまつげをそっと伏せた。

「そうじゃないの。ただ……」

 言葉はそこで途切れた。壊れそうな、もろい微笑み。障子しょうじの向こう、冬の色に染まりはじめた曇り空を見上げる。灰色の夜空。灯る光は、楼のひさしに連なる赤い提燈ちょうちんだけ。

「星が見えれば良いのにね」

 そうしたら、せめて、願いをかけることができるのに。

 吐息とともに零れ落ちた言葉は、空に飛び立つことなく畳の上に散らばり、淡雪あわゆきのように、すっと消えた。



 数日後、女将の検診に訪れたお医者様は、先の挨拶で仰ったとおり、橡様を同行させていた。産屋で女将がどんな様子なのか、わたしは知らないけれど、お医者様の表情は穏やかだったから、そろそろ無事に産まれるのだろうと思う。

 女将の検診のついでにと、お医者様は、わたしたちも診てくれた。このお医者様は、いつもこうだ。お金にならないのに、何故。わたしは毎回、不思議に思っていた。診てやる代わりに遊ばせろと言われたほうが、ずっとに落ちる。

 怪訝の色を滲ませたわたしの瞳をみとめたのか、お医者様は苦笑混じりに言った。

「私はね、こどもたちの健康を守るという、医師としての私の責任を、果たさせてもらっているんだ。ただの老人の自己満足、そう思ってもらって構わないよ」

 わからない。お医者様の言葉を、わたしは理解することができなかった。だって、それでは、奉仕ではないか。でも、奉仕は、目下の者が目上の者に、利害を考えずに尽くすことをいうはず。医師と花、おとなとこども、この世界で、どちらが上かなんて、常識以前の問題だ。ここでは、こどもは、おとなの商品でしかないのだから。

『つまり、商品管理ということでしょうか』

 より良い勤仕きんしができるように、わたしたちの体をととのえること。それなら合点がいく。細長く切った半紙に、わたしは筆を滑らせた。

『でも、それならせめて、有償であるべきではないのですか。検診のために使われる、お医者様の時間も、知識も、けっして安いものではないのでしょう』

 検診は、わたしと姉様で最後だった。几帳きちょうの向こうでは、姉様が橡様に検診を受けている。少し、お医者様と話してみたかった。姉様が終わるまでなら大丈夫だろう。

 基本的な検診までなら、見習いでも認められているらしい。わたしたち以外では、お医者様が花を、橡様が蕾や苗を、担当していたみたいだけれど、わたしと姉様だけ、それが逆になった。お医者様の計らいだろうか。それとも、姉様か橡様が、お医者様に頼んだのだろうか。

「商品管理、ねえ」

 わたしの書いた半紙を読んで、お医者様は、すこし困ったような笑顔を浮かべた。大きなおとなの掌が、わたしの頭をぽんと撫でる。あたたかい手だった。

「たしかに、君の言うことは間違ってはいない。ただ、世の中にはね、相手のために自分が自分の意志で何かを与えることができるという幸福があるんだ。難しいかな」

『難しいです』

 答えると、お医者様は「そうかあ、そうだなあ」と頭を掻いて苦笑した。

「たとえば、そうだな、君は、桔梗殿が好きかな?」

『はい。大好きです』

 急に姉様の名前が出てきて、わたしは目をぱちぱちさせながら、それでもすぐに、書きなぐる勢いで即答した。

「なら、桔梗殿のために、自分ができることなら何でもしたいと思うかい?」

『もちろんです』

 姉様が喜んでくれるなら、姉様が笑ってくれるなら、わたしは、わたしの精一杯を尽くしたい。

「そう思える相手がいることは、幸福だろう?」

 ああ、そうか。わたしはこくりと頷く。お医者様の顔に、初めて苦笑以外の微笑みが浮かんだ。

『お医者様は、この方舟に生きる全ての人間を、愛していらっしゃるのですね』

「愛する、なんて聖人君主ではないけれどね」

 誰かのために生きたいと思えること。そう思える誰かがいること。それは、至極、幸せなことなのだ。

『あなたのようなおとなもいるのね』

 心のままに書いてから、敬語を忘れたことに気がついた。

 急いで訂正しようとしたわたしの筆を留めて、お医者様は笑った。なんだかとても嬉しそうだった。わたしもつられて、唇だけ小さく微笑んだ。

『さいごに、ひとつ、伺ってもいいですか』

「なにかな?」

『わたしの声は、いつかまた出るようになるのでしょうか』

 わたしの問いに、お医者様は少し難しい顔をして、考えるように眉根を寄せた。お医者様の顔だ、とわたしは無意識に姿勢を正す。

「生まれつきではないのなら、何かのきっかけで戻る可能性は充分にあるよ」

 わたしの頭をぽんぽんと撫でて、お医者様は再び表情を和らげて立ち上がった。廊下まで見送り、わたしは、ぺこりと頭を下げた。待機していた楼主の使いが、お医者様を、楼主の部屋へと案内していく。それを見届けて、わたしは、そっとふすまを閉めた。几帳の向こうの影法師を見遣る。抑えた会話が聞こえた。

「これで、おわかりになったでしょう。医師の見習いである貴方様なら、わたしの体がどんな代物なのか。貴方様の新しい門出かどでをお祝いさせていただくには、わたしの体は、縁起が悪すぎます」

「俺の心は、変わりません」

「どうして」

 姉様の声が、微かに震える。几帳の影をみつめながら、わたしは襖の傍から動けずに、息をひそめてじっとしていた。

「医師は縁起をかついだりしません。それに……」

 抑えた橡様の声が、しんと静まり返った部屋の中、水面みなもに雫を落とすように、空気にゆるやかな波紋をつくる。

「あなたの瞳に惹かれたのだと言ったら、あなたは笑いますか」

「瞳?」

「はい。星の降る夜空のような瞳」

「詩的なことを仰るのね」

 くすりと微笑む姉様の気配がした。科白だけきいていれば、それはこの見世に来るおとなたちの常套句じょうとうく、使い古され聞き飽きた口説き文句のひとつに過ぎなかったけれど、橡様の声音も、姉様の雰囲気も、そんな睦言むつごとめいた甘やかさは欠片もなかった。ただ淡々と静かな真摯しんしさだけがあった。

「あなたと同じ瞳をしたこどもに、昔、会ったことがあります」

 しばしの沈黙の後、橡様が、ひときわ抑えた声で、そう切り出した。

「おともだち、でいらっしゃったのですか?」

「……そうですね、いつか、友人になれたかもしれない。俺のせいで、友人になれなかった。友人になりたかった、知り合いでした」

「わたしの瞳に、その子の面影があるのですね」

「はい。それが、あなたを選んだ、きっかけでした。失礼を、お詫びします」

「失礼だなんて……むしろ、それが理由なら、わたしは頷くことができます」

「もちろん、あなたの心がかげるなら、俺は、あの指し紙を取り下げます。ただ……」

「ただ?」

「本心を言うと、今日まで俺は迷っていました。初冠の宴なんてならわしなど無ければいいとさえ思っていました。それでも、どうしても誰かを選ばなければならないのなら、追憶に重なるあなたを、選んで、けれど抱かずに、初冠の夜を越えようと、考えていました。でも、あなたは先刻、あなたの体を需要だと言った。それをきいたとき、俺は、心を決めました」

 ゆっくりと、一言、一言、考えるように、橡様の言葉が紡がれていく。姉様は、それを静かに聴いていた。

「あなたの瞳に惹かれて、あなたの瞳に宿る星空に焦がれた、俺の欲は、あなたの需要になりますか」

 影法師は動かない。重ならない。ぴんと張り詰めた沈黙に、わたしは呼吸を止めていた。橡様は、知っている。きっと。橡様は、ほんものの星空を知っているひとなのだ。ひたすらに何かを、切望したことのあるひとなのだ。

 姉様の影法師が、すっと、お辞儀のかたちに折れた。

「お選びいただき、光栄にございます。貴方様のえある初冠の宴を彩る祝福の花として、誠心誠意、つとめさせていただきます」

 それは、花が指し紙に応えるときの、定型の言葉だった。

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