第九話

「柊様、培地の準備が整いました」

「ああ、今行く」

 昼下がりの研究室。実験室から出てきた助手が、机にかじりつく柊の背中に声をかけた。数式を書きつける手はそのままに、柊は助手の青年に早口で尋ねる。

「検体の搬入は?」

「半刻後には到着するかと」

「わかった」

 返答と同時に席を立ち、書き終えた一枚の半紙を助手に手渡す。

「この濃度勾配でいこう。検体の鮮度は死んでも落とすなと、伝えているね?」

「はい」

 白衣をなびかせ実験室へと踵を返す、その刹那、柊は机上に置いていた硝子の小瓶を、すっと片手で取り上げた。まるで、それが当然のように、自然な仕草で。

「柊様、それは……」

 助手の青年が、途惑とまどうような、おびえるような、複雑な表情を浮かべて、呟くように言った。ああこれ? と、柊は手の中の小瓶を軽く上げる。

「仕舞い込んでおくのはもったいないだろう。せっかくだから、私の実験の行く末を見届けてもらおうと思ってね」

 小瓶の中には、人間の眼球。充たされた保存液に時間を止められた、子供の片眼が沈んでいた。透明な硝子瓶の中、それは琥珀に封じられた羽虫のように、ひっそりと、それでいて生々しく、じっと世界を映している。雲間から垣間見える冬の星空のような、澄んだ黒い瞳だった。

「……〝玻璃〟の眼球ですか」

「そうだよ」

 にっこりと、無邪気な色さえ滲ませて、柊は微笑んだ。

「綺麗だろう? 私が、この世界で最も美しいと感じることのできたものだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る