第十話

 吹く風に、冬の色が混ざりはじめた夜だった。

 床の間とは反対側のふすまの向こうから、微かなざわめきが流れてきて、夜の静寂に波紋を立てた。まどろみの淵から引き上げられたわたしは、目をこすりながら体を起こした。いまだ、夜は深く、楼全体が寝静まっている。

 気のせいかと思い直して息をついたとき、再び人の話し声が耳に届いた。なんだろう。わたしは、そっと耳を澄ます。隙間風の音に混じって、聞こえてくる、楼主の声と……お医者様の声?

 廊下へとつづく襖を、そっと開けた。誰もいない。衣擦れの音が立たないようにすそからげて、足音をあやめて、わたしはこっそりと部屋を出た。

 あとから思えば、何故そんな行動をとったのか、自分でも、わからない。ただ、はやる心のままに、わたしは声の聞こえてきた方、楼の裏手へと向かっていた。

 楼主の住まう離れに近づくことは禁じられている。見つかったときのことを考えると足がすくまないわけがなかったけれど、頭が警鐘を鳴らす前に、わたしは生垣いけがきの隙間をくぐりぬけていた。

 よく磨かれた玉砂利が、産屋へと続いている。おとなが普通に通れば足音が高らかに響き渡っていただろうけれど、小柄なこどもで、しかも裸足だったわたしにとっては、足跡もつかない、好都合な道だった。

 人の声が大きくなる。うめくような、叫ぶような声。身を屈めて産屋の裏に回る。小窓を、見つけた。換気のためだろうか、薄くひらいている。声はそこから漏れてきているようだった。背伸びをして、片目をつむって、中を覗く。

 たくさんのおとなたちが、狭い部屋に集まっていた。部屋のまんなかに、天井から、太い縄が下がっていて、それを掴んで上体を起こし、女将が目を閉じてうなっていた。男を迎えるわけでもないのに、曲げた脚を、はしたなく、ひらいて。

(なにをしてるの……?)

 眉をひそめて、わたしはみつめる。悲鳴ともあえぎともつかない、女将の声が、途切れ途切れに吐き出されていく。

(お医者様が来ているということは、急病……?)

 そうは見えない。

(何……?)

 目をらす。耳をそばだてる。女将の周りで、おとなたちが御簾みす越しに口々に声をかけている。混ざり合い、重なり合い、判別のつかない科白の中、わたしの耳が、その言葉の一つを拾った。

(ああ、そうか)

 わたしは、やっと、答えを掴んだ。

(今夜なんだ)

 お湯でも沸かしているのだろうか、湿気と汗の匂いが、鼻を掠める。

(これが……)

 目の前の光景を眺めながら、わたしは半ば無意識に姉様のことを考えていた。


 姉様は、ゆりかごをもたなかった。

 この世界の創造主に、お前は母親にはなるなと、そう定められたのだと、言って、姉様は笑った。

 姐やたちには、月に数日、客をとれない期間がある。月のさわりだとか、潮が満ちただとか、姐やたちは言っていた。けれど、姉様には、それがなかった。いつでも客をとることができた。そんな姉様に、姐やたちは、姉様の体を人形だと言った。男に抱かれるためだけにつくられた人形じゃないかと。


 食いしばった歯の隙間から漏れる女将の声が、夜の闇を裂く。わたしの心をはやらせていた奇妙な興奮は、いつのまにか、何処いずこへと消え失せていた。はやす取り巻きに囲まれて、背中を大きくけ反らせてうめく、おんな。わたしはそれを、冷やかに眺めていた。


 御簾の向こうから泣き叫ぶ声がする。

 欲と欲が混ざり合ってうまれた、醜く膨れたはらから血塗まみれの肉の塊が出てくるのをみて、わたしは……姉様が何故美しいのか、わかった気がした。



*



 十日後。橡様の初冠の宴に合わせた、新しい、姉様の打掛うちかけが届けられたのは、楼が、そろそろ昼見世の支度を始めようかと動き出す時刻だった。

 姉様の部屋に運び込まれた打掛は、青藍せいらんの地に、水の流れるさまと飛び交う蝶が繊細な銀糸の刺繍であらわされた、とても上品なものだった。

(きれい……)

 まさに羽を広げた蝶のように、ぴんと袖を伸ばして飾られた打掛に、わたしは思わず見蕩みとれて嘆息した。

「ほらほら、ぼうっとしてないで、桔梗を呼んできておくれ」

 声とともに肩を叩かれ、はっと我に返ったわたしは、その拍子に半尺くらい飛び上がっていたと思う。



 中庭の桜の木の下に、姉様はたたずんでいた。雲にふるわれた淡い光を受けて、姉様の肌は透きとおるように白くみえた。

 桜は、姉様の好きな花だった。一斉に咲き誇り、枯れる前にひといきに散るところが、とても好きなのだと。

 冬の足音がせまる今の時期、桜の葉は最後のいろどりをみせていた。敷き詰められた艶やかな赤と黄が織りなす綾錦あやにしきの根もと。灰色の空を背景に、影絵のように引き立つ黒のこずえ。所々残った葉のだいだいが差し色となり、まるで一枚の絵のように、鮮やかに目に飛び込んでくる。桜は、激しい。白くけむる満開の花も、せ返るような夏の緑も、極彩色の秋も、おごそかな黒い梢をかかげる冬も。

「睡蓮?」

 走ってきたの? と、わたしの頬の赤さをみとめた姉様が、ぱちぱちと軽く瞬きをする。急いで出てきて筆も紙も忘れたわたしは、とりあえず部屋へと戻らなければならないことを伝えようと、姉様の袖を握って引いた。察した姉様が、わたしの手を包んで頷く。

(あれ……?)

 いつものように繋いだ姉様の手が、いつになくひどく冷たいことに気がついた。たしかに気温は下がってきているけれど、まだ秋の終わりで、凍えるには早い。

(姉様……?)

 押し寄せる不安に、繋いだ手に自然と力がこもる。

「睡蓮は、あったかいね」

 ふわりとわたしを見下ろして、姉様は穏やかに微笑んだ。それは、ぞっとするほど白く、淡く、慈しみを湛えた、透明すぎるほど透明な微笑だった。



 五日後の夜、橡様の初冠の宴が、予定通り、り行われた。

 蕾の正装である赤い振袖を着て、わたしは姉様の傍につく。

 いつもよりおとなっぽいお化粧に彩られ、すっととおった華奢な背筋を伸ばして凛と佇む姉様は、気高く優雅で美しかった。こどもであるはずなのに、こどもじゃない。そうかといって、おとなでもない。それは、こどもとも、おとなとも、つかない、ひとのかたちをした別の何かのようにみえた。

 青藍の打掛に、桔梗の刺繍がほどこされた浅紫の帯。薄闇が包む楼の中、銀の糸で縫いとられた打掛の蝶は、一歩、一歩、足を踏み出す度、きらきらと舞うように浮かび輝く。

「睡蓮」

 座敷に至る最後の襖の前で、姉様が、そっとわたしを呼んだ。

「よくみておいてね」

 わたしを、憶えていてね。

「あとどれだけ、あなたに教えられるかしれないから」

 襖がひらく。高らかに詠まれる祝詞のりと静寂しじまを綾取る箏の音色。三味の旋律。

 結いあげた髪に、ゆれる花簪はなかんざし。姉様が舞う。衣装の重さを欠片かけらも感じさせない、軽やかな足捌さばき。羽のようにひらひらと返る、ぱっとひらいた扇の表裏。爪先から指先まで、完璧に整えられた姉様の舞は、その場にいる全てのおとなたちの呼吸を止めた。これが花なのか、と誰かが呟いた。無意識に、茫然と、零れ落ちた言葉だった。箏を弾きながら、わたしは唇を引き結ぶ。そうだ。これが花だ。わたしたちの、生きる代償、生きる資格だ。よく見ろ。思い知るがいい。味わい尽くすがいい。お前たちの業を苗床に、お前たちの欲を養分に、生き延び、育ち、咲きほこるのが、わたしたち、花だ。



 灯りをおとす。宴の終盤。ここから先は、正客と花だけ。

 薄闇が包む、がくの止んだ、静寂の満ちる座敷。衣擦れの音だけが、かすかに、さやさやと響く。細やかな装飾の施された儀礼用の提燈ちょうちんを手に、蕾であるわたしが案内役として、ふたりを奥の間へと導く。

――よくみておいてね。

 姉様の言葉が、耳に蘇る。

――あとどれだけ、あなたに教えられるかしれないから。

 どういう意味なの。わからない。わからないよ姉様。提燈を持つ手に力をこめる。違う。ほんとうは、薄々、わかっている。わかりたくなくて、自分で自分に駄々をこねた。こわかった。わからないふりをしていたかった。

 襖の向こう、夜の闇が、ふたりを呑みこむ。敷居の手前で、わたしは深く一礼し、そっと襖を引く。いつものように。けれど、いつもと違い、わたしはその襖を完全に閉ざすことなく、親指ほどの隙間を残した。姉様の望みを叶えるために。



 橡様の長い指が、姉様の打掛をするりとおとす。暗闇の中、ほんのりと白く光るように浮かび上がる、姉様のうなじ。淡い影を描く鎖骨が引き立てる、ほっそりと滑らかな丸みをもつ肩。そして、その下につづく、かたちの良い、やわらかな胸。

 最初は額に、それから、鼻筋を通って、唇に。橡様の唇が、姉様の体を辿っていく。応えるように、姉様は両腕を伸ばし、橡様の体に絡めた。細く、しなやかな、花のつるみたいだった。

 敬虔な巫覡ふげきのようにひざまずき、橡様は姉様の左の胸の上、ぴんと尖りはじめた蕾を口に含んだ。右の胸は左手で包んで、ゆるやかに円を描くように撫でていく。やがてその手はあばらをなぞり、臍の前を通って、はざまの窪みへと辿りつく。橡様が薄く目をあけ、姉様を見上げる。頷くように、姉様の両手が橡様の頬を包む。姉様の体にさしこまれる長い指。鈴の音色に似た姉様の声が、ささやきよりもあえかなかそけさで、甘やかに吐息に混じっていく。まもなく姉様の体から、ふっと力がほどけた。橡様の両腕が、姉様を抱きとめる。ととのいきらない呼吸はそのままに、どちらからともなく、合わさる唇。姉様の指が、橡様の胸を辿り、その下につづく影に触れる。淵の底へと手をさしのべるように。橡様の喉の奥から、くぐもった呻き声が零れる。いざなうように、ひらりと影から飛び立った白い姉様の手は、再び橡様の背中に。重なる胸。とけあう吐息。淵に身を委ねた白い花。

 細い姉様の腰を支え、唇を重ねたまま徐に姉様を組み敷いてゆく橡様は、白花の蜜を吸う一羽の黒蝶に見えた。

 姉様が闇に咲く花ならば、橡様は闇そのものみたいだった。そう在ろうとしたのかもしれなかった。夜の闇に沈む部屋の中、姉様の体が咲き誇る。橡様は姉様の内にある闇を真摯に求め、姉様は橡様の穿うがつ光を深々と迎え導いていた。闇の殻をまとい光を内包するのが男の体ならば、光の膜をまとい闇を秘めるのが花の……女の体なのかもしれなかった。瞬きも、呼吸すらも忘れて、わたしは光と闇が重なり合うのをみつめた。そこにあったのは、欲と欲、なんかじゃ、なかった。途方もない、いとしさだった。

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