第十話
吹く風に、冬の色が混ざりはじめた夜だった。
床の間とは反対側の
気のせいかと思い直して息をついたとき、再び人の話し声が耳に届いた。なんだろう。わたしは、そっと耳を澄ます。隙間風の音に混じって、聞こえてくる、楼主の声と……お医者様の声?
廊下へとつづく襖を、そっと開けた。誰もいない。衣擦れの音が立たないように
あとから思えば、何故そんな行動をとったのか、自分でも、わからない。ただ、
楼主の住まう離れに近づくことは禁じられている。見つかったときのことを考えると足が
よく磨かれた玉砂利が、産屋へと続いている。おとなが普通に通れば足音が高らかに響き渡っていただろうけれど、小柄なこどもで、しかも裸足だったわたしにとっては、足跡もつかない、好都合な道だった。
人の声が大きくなる。
たくさんのおとなたちが、狭い部屋に集まっていた。部屋のまんなかに、天井から、太い縄が下がっていて、それを掴んで上体を起こし、女将が目を閉じて
(なにをしてるの……?)
眉をひそめて、わたしはみつめる。悲鳴とも
(お医者様が来ているということは、急病……?)
そうは見えない。
(何……?)
目を
(ああ、そうか)
わたしは、やっと、答えを掴んだ。
(今夜なんだ)
お湯でも沸かしているのだろうか、湿気と汗の匂いが、鼻を掠める。
(これが……)
目の前の光景を眺めながら、わたしは半ば無意識に姉様のことを考えていた。
姉様は、ゆりかごをもたなかった。
この世界の創造主に、お前は母親にはなるなと、そう定められたのだと、言って、姉様は笑った。
姐やたちには、月に数日、客をとれない期間がある。月の
食いしばった歯の隙間から漏れる女将の声が、夜の闇を裂く。わたしの心を
御簾の向こうから泣き叫ぶ声がする。
欲と欲が混ざり合ってうまれた、醜く膨れた
*
十日後。橡様の初冠の宴に合わせた、新しい、姉様の
姉様の部屋に運び込まれた打掛は、
(きれい……)
まさに羽を広げた蝶のように、ぴんと袖を伸ばして飾られた打掛に、わたしは思わず
「ほらほら、ぼうっとしてないで、桔梗を呼んできておくれ」
声とともに肩を叩かれ、はっと我に返ったわたしは、その拍子に半尺くらい飛び上がっていたと思う。
中庭の桜の木の下に、姉様は
桜は、姉様の好きな花だった。一斉に咲き誇り、枯れる前にひといきに散るところが、とても好きなのだと。
冬の足音が
「睡蓮?」
走ってきたの? と、わたしの頬の赤さをみとめた姉様が、ぱちぱちと軽く瞬きをする。急いで出てきて筆も紙も忘れたわたしは、とりあえず部屋へと戻らなければならないことを伝えようと、姉様の袖を握って引いた。察した姉様が、わたしの手を包んで頷く。
(あれ……?)
いつものように繋いだ姉様の手が、いつになくひどく冷たいことに気がついた。たしかに気温は下がってきているけれど、まだ秋の終わりで、凍えるには早い。
(姉様……?)
押し寄せる不安に、繋いだ手に自然と力がこもる。
「睡蓮は、あったかいね」
ふわりとわたしを見下ろして、姉様は穏やかに微笑んだ。それは、ぞっとするほど白く、淡く、慈しみを湛えた、透明すぎるほど透明な微笑だった。
五日後の夜、橡様の初冠の宴が、予定通り、
蕾の正装である赤い振袖を着て、わたしは姉様の傍につく。
いつもよりおとなっぽいお化粧に彩られ、すっととおった華奢な背筋を伸ばして凛と佇む姉様は、気高く優雅で美しかった。こどもであるはずなのに、こどもじゃない。そうかといって、おとなでもない。それは、こどもとも、おとなとも、つかない、ひとのかたちをした別の何かのようにみえた。
青藍の打掛に、桔梗の刺繍が
「睡蓮」
座敷に至る最後の襖の前で、姉様が、そっとわたしを呼んだ。
「よくみておいてね」
わたしを、憶えていてね。
「あとどれだけ、あなたに教えられるかしれないから」
襖がひらく。高らかに詠まれる
結いあげた髪に、ゆれる
灯りをおとす。宴の終盤。ここから先は、正客と花だけ。
薄闇が包む、
――よくみておいてね。
姉様の言葉が、耳に蘇る。
――あとどれだけ、あなたに教えられるかしれないから。
どういう意味なの。わからない。わからないよ姉様。提燈を持つ手に力をこめる。違う。ほんとうは、薄々、わかっている。わかりたくなくて、自分で自分に駄々をこねた。こわかった。わからないふりをしていたかった。
襖の向こう、夜の闇が、ふたりを呑みこむ。敷居の手前で、わたしは深く一礼し、そっと襖を引く。いつものように。けれど、いつもと違い、わたしはその襖を完全に閉ざすことなく、親指ほどの隙間を残した。姉様の望みを叶えるために。
橡様の長い指が、姉様の打掛をするりとおとす。暗闇の中、ほんのりと白く光るように浮かび上がる、姉様のうなじ。淡い影を描く鎖骨が引き立てる、ほっそりと滑らかな丸みをもつ肩。そして、その下につづく、かたちの良い、やわらかな胸。
最初は額に、それから、鼻筋を通って、唇に。橡様の唇が、姉様の体を辿っていく。応えるように、姉様は両腕を伸ばし、橡様の体に絡めた。細く、しなやかな、花の
敬虔な
細い姉様の腰を支え、唇を重ねたまま徐に姉様を組み敷いてゆく橡様は、白花の蜜を吸う一羽の黒蝶に見えた。
姉様が闇に咲く花ならば、橡様は闇そのものみたいだった。そう在ろうとしたのかもしれなかった。夜の闇に沈む部屋の中、姉様の体が咲き誇る。橡様は姉様の内にある闇を真摯に求め、姉様は橡様の
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