第八話

 夢の中で、おれは、いつも、三年前のおれだった。

 おれが元々いた方舟は、今のそれよりずっと小さく脆弱なものだった。羽人の数も少なくて、今の方舟なら引退を余儀なくされただろう力の衰えた羽人も、輸送機として駆り出されていた。

 戦闘機だったおれと組になった輸送機は、ひたきという、おれよりも四つ年上の女だった。組になる前から演習で何度か剣を交えたことがあったが、おれは鶲に一度も勝てたためしがない。剣術で鶲の右に出る羽人は、片手で数えるほどだった。

「あんたくらい強ければ、おれの出る幕なさそうだけど」

「ばーか。空では速さが第一だ。頼りにしてるよ、鴉くん」

 ばしんとおれの背中を叩いて、鶲は明るく勝気に笑った。

 それが、最初の飛行だった。

 いつもと同じ、浮力石を採りに行く任務。だが、いつもなら最低一回は出くわすカミサマと、今日は一度も遭遇しなかった。

「幸運だったと、喜ぶべきなんだろうけど」

「胸騒ぎがするね。早く戻ろう」

 雲の下ぎりぎりの高さを、方舟を探して飛ぶ。方角は間違っていないはずだった。けれど、いくら目を凝らしても、方舟の影すら見つけることができない。

(まさか……)

 後ろを飛ぶ鶲を振り返る。彼女も同じことを考えていたようだった。頷いて、元来た方へと引き返す。

「先に行け! おまえの方が速く飛べる」

 鶲の声が、おれの背中を叩いた。返事に代えて、おれはすぐさま速度を上げる。真っ白になった頭の中で、おれは繰り返し家族の名前をひとりずつ唱えていた。祈りのように。呪文のように。

 ひたすら飛びつづけて、おれは、それを見つけた。本来の進路から大きく外れた遥か下方、長く尾を引きたなびく黒煙。

 カミサマは、既に引き上げたあとのようだった。ただ人々の悲鳴だけが溢れていた。ゆっくりとかしいでいく方舟。それを、おれは数秒、ただ茫然と見下ろしていた。墜ちていく。みんなが。家族が。

「だめだ! 降りるな!」

 追いついてきた鶲の声が、遠く聞こえた。煙のせいで、街は全く見えない。上からは探せない。息をとめて、煙に飛び込む。目についた適当な街路に、おれは降り立った。途端に押し寄せる熱。剥き出しの頬に、呼吸の度に咽喉に、焼けつくような鋭い痛みが走る。

 火に舐めつくされていく街。炎に包まれ崩れた家が、火の塊となって道を塞ぐ。炎に追われた人々が、一斉に方舟の縁へと駆けていく。けれど、そこから先に、逃げる場所はない。

(どこだ……)

 家を探そうとした。ここが方舟のどの位置にあたるのかも、わからないままに。

「その髪の色、あんた、羽人だね」

 唐突に、右の腕を掴まれた。おれの母親くらいの歳の女だった。

「この方舟は、墜ちるんだろう?」

 今度は左側から。若い男だった。続いて肩を、袖を、無数の手が掴んでくる。砂糖菓子に群がる蟻みたいに。

「頼む。おれを乗せて飛んでくれ」

「私も」

「おねがい」

「ここから」


「たすけて」


「や……めろ……っ」


 すがりつく幾本もの腕。絡みつく体の重さを支えきれずに膝をつく。圧し掛かる人々の体。首を掴まれ息が止まる。降りるな、と叫んだ鶲の言葉を思い出した。鶲は、こうなることを知っていたのだろうか。

(悪い)

 意識が朦朧もうろうとする。まぶたが重い。かすみ、せていく視界の中、ちかちかと光が明滅する。ああ、おれは、死ぬんだな。そう、他人事みたいに、ぼんやりと思う。死ぬのか、みんな。頼りない兄貴でごめんな。戦闘機のくせに、助けられない息子でごめん。でも、一緒に墜ちるから。一緒だから。だから……

「鴉!」

 鋭い声が、耳を打った。おれの体を押さえつけていた負荷が、ふっと消える。鶲? 目をあけた。ひらける視界。

 燃え盛る炎を背に、鶲が立っていた。右手にげた抜き身の刀が、炎を映して鋭くきらめく。人々の血を、滴らせて。

 鶲の左手が、おれの右腕を掴んだ。強い力で、おれを引き上げる。おれの脚を抱きかかえていた男の体が、ごろりと転がる。背中に深い刺傷があった。鶲の刃だった。

 おれの腕を掴んだまま、鶲が地面を蹴る。黒煙を抜けて、空へ。振り返る。炎に包まれた方舟が、ゆっくりと斜めに墜ちていく。

 鶲は、おれから手を離さなかった。ただ黙って、東の方向に、飛びつづけていた。

「おまえを助けられてよかった」

 ぽつり、と雫を一滴おとすように、鶲が呟いた。一刻ほど、飛んだ頃だった。

「……鶲?」

 おれの手首を掴んでいる鶲の手が、酷く冷たくなっていることに気がついた。顔を上げて鶲をみつめる。前を飛ぶ鶲の表情は見えない。隣に並ぼうとしたおれを押しとどめて、鶲が、ふっと、微笑む気配がした。苦笑のようにも、自嘲のようにもとれる、かすかな嘆息を、ひとつ、数えて。

「鴉、このまま、まっすぐに飛べ。他の方舟に行きつくはずだ」

「鶲?」

「やっぱり速さが第一だな。どんなに剣の腕を上げても」

「……カミサマが……?」

「ああ。一柱だけ残ってた。倒したけど、これじゃあ、ざまあないな」

 濡れそぼった、鶲の衣。ずっと、返り血だと、思っていた。血の気の引いた白い顔が、振り返る。

「そんな顔するな。おまえのせいじゃない。おまえがおまえの家族を助けようとしたのと同じだ。わたしに家族はいないからな。弟みたいなおまえを、助けたいと思った。そんな自分の望みを、わたしは、叶えただけだ」

 鶲の手が、おれから離れる。明るく勝気に微笑んで。とっさに掴もうと伸ばしたおれの手を、振り払って。

「おまえは、まだ飛べる。だから、飛べ。鴉」



 ぽつ、と頬に冷たい雫を感じて、おれは目をあけた。しっとりと湿った、ささくれた板の感触が、体の下にあった。明け方か、それとも夕方か、辺りには青みがかった薄闇が広がっている。どこかの方舟の甲板らしい。降り立ったところで力尽きたのか。視界が垂直に傾いていた。視界といっても、転落防止の柵がもやの向こうにかすむだけだったけれど。

 視線を動かすと、投げ出した自分の右腕が目に入った。手首には、鶲の指のかたちが、血のあととして、残っていた。乾ききって、黒く色を変えた血。降りそそぐ小雨がそれを滲ませ、洗い流していく。

 左腕を持ち上げて、血のあとに、そっと、掌を重ねた。鶲。ひたき。

 誰かが近づいてくるのを、振動で知覚する。次いで、靴音が、二人分。おれの頭の上で、それは止まった。

「どこかの方舟の戦闘機か」

 雨とともに、声が降る。若い、けれど落ちついた、おとなの男の声だった。

「君、名前は?」

「……からす」

「鴉か。良いだろう、君が望むなら、私が君を迎え入れよう」

「柊様」

 もうひとつの声が、ためらいがちに落ちてくる。こっちは、年かさの男らしい声。

「構わない。身受け人が必要なら、私が彼の兄貴分になろう」

「しかし」

「方舟にとって、羽人は多いほど都合が良い。しかも、彼は、戦闘機だ。わかっているだろう?」

 医療班を呼べ、と若い声が短く命じた。物言いたげな沈黙のあと、遠ざかる足音がひとつ。

「頭の固いおとなは嫌いだ」

 ふふっとこぼれた微かな笑い声。さらりと衣ずれの音がして、薬草だろうか、涼やかなみどりの匂いが鼻先を掠めた。ひざまずく華奢な体。白い手が、おれの左の手を握る。温度のない掌だった。春の雨のように、穏やかな声が降る。

「私の鳥になれ、鴉」



 *



 目を開ければ、見慣れた天井が広がっていた。頬を打つ雨の雫も、ささくれた板の感触もない。

(また、あの夢……)

 おれの夢はいつだって、鶲の声で始まり、柊の声で終わる。


 障子をあければ、ちょうど朝靄あさもやが晴れていくところだった。薄く曇った空に、夏の陽射しが滲んでいる。この街が極彩色の笹飾りに彩られるのも、もうすぐだろう。

 着替えを済ませて、足早に寮を出た。今日は、任務の予定が無い。行きたいところがあった。昨日目にした、白いこども。会ってみたいと、思った。会ってどうするのか。わからない。ただ、夜闇を舞うひとひらの雪の残像に、どうしようもなく、ひきつけられていた。


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