つまらない人生

──恥の多い生涯を送って来ました。

  自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。──



 試験明けのこの日。いつもなら閑静かんせいな街並みが戻ってくるはずなのだが、今回ばかりは特別だった。瑞綺みずきは長い廊下を歩きながら、窓の先に見える喧騒けんそうに眉を顰める。


 聖なる祝日──この日はアムネジアで暮らす者にとって、何にも勝る素晴らしい祭日。街は一層の輝きを放ち、人々は美しい召し物をまとい、その絢爛さに酔い痴れる。


 くだらない。瑞綺はそう思った。汚辱と欲望にまみれたその一日が、この街の人間にとっての最高の日となるのだ。管理された社会の人間は、本当に楽しいもの、本当に美しいもの、本当に正しいもの──この世に存在するありとあらゆる【真実】の何もかもを知らない。政府の宣伝活動プロパガンダに従順に、。否、しかし政府を悪く言うことは出来ない。彼らが刷り込んでいるのは、その人の人生にとって有力な、【正しい】情報なのだから。限られた人生の中、最も穏健に暮らすことの出来る正しい情報。しかしその人生の、なんともつまらないことか。

 瑞綺は知っていた。あの人に連れ出されたあの日。この世界で最も汚らわしいと嘆かれる深淵の地で、この世の何にも勝る美しい星空を見た。最も貧しいと謳われる地獄で、この世の何にも勝る美味うまい飯を食った。真の美しさとはこういうものだと見せつけられたような気がした。輝きもない。夢もない。されど幸せな、温かい生活──


「アンリ様、夕食の準備が整いました」


 廊下の突き当たりに佇む大きな扉。その前にいた一人の執事は、そう言って腰を折る。扉が音もなく開き、食堂が姿を現す。


「来たか」


 その部屋の中央で、男はそう呟いた。口から紫煙が吐き出される。彼の脇に腰掛けている妖艶な女が、その煙を指でつついた。撫でるようにねっとりとした手つき。


「試験直後にお呼び出しとは。

 なかなか酷い方ですね」


 瑞綺は冗談めかしてそう言う。苦い煙が鼻に刺さる。


「すまないな」


 全く申し訳なさそうに、その男は肩をすくめた。脇にいる女が、じっと瑞綺を見つめていた。底の見えない黒い瞳。無機質な表情かお


 男と瑞綺は細々とした会話を交わし、食卓についた。無言で料理を口に運ぶ。


「…今回の試験もトップスコアだったそうじゃないか」

「……えぇ」

「誇らしい、お前は私の自慢の息子だ」


 男はそう溢し、僅かに微笑んだ。薄気味悪い下卑げびた笑みだった。


「これからも精進してくれたまえ」

「……」


 自分はお前なんかのために頑張っている訳ではないと、そう言ってやろうかと息を吸う。しかし、言葉がほころびることはなかった。胸のあたりに停滞したまま、ただずっしりとした重みだけが広がる。


 では何のためだ。

 自らは何のためにトップスコアを収めているのだ。


 答えは出ない。


「容姿、身体能力、学業、道徳……全てにおいてトップだ。

 素晴らしいな」


 男は噛みしめるように、再びそう呟いた。横で女の手がなまめかしく動き、男の顎筋を撫でる。


「お前が女だったら良かったのに」


 部屋に沈黙が落ちた。


 その台詞は、この男が使う常套句じょうとうくだった。その言葉を吐かれる度、どうしようもない嫌悪感と、一抹の不安に駆られる。瑞綺は微かに嘆息を漏らし、男を見た。権力に自惚うぬぼれ堕ちた青い瞳。それは見紛みまがう事なく、自分と同じ瞳だった。男の顔に自らの老いた姿が重なる。いつか自分にも、この禍々しい顔に成り果てる日が来るのだろうか。


 いつの間にか男の脇にいたはずの女が、瑞綺の後方に立っていた。いたわるようにそっと、瑞綺の顔筋を撫でる。それは首筋に伝い鎖骨をなぞった。


「…っ……!」


 短く息を吐く。目の前の男は陰湿いんしつな笑みを浮かべ、瑞綺を見下ろしていた。考えたくもない。この男と自分の血が繋がっていることなど。あまつさえ、おのれがその権威のもとに安寧を手にしていることなど。

 女が瑞綺に馬乗りになる。吐息が体を撫でる。悪寒がして体が震える。そっと顔を寄せられる。ただただ怖かった。黒い瞳に呑まれそうになる。一切の体温を感じない肌に目眩めまいがする。赤い舌が瑞綺の唇をなぞった。

 心底落魄おちぶれた人間だ。聖都市に生きる者として、人造人間キマイラを買いえつひたる者として、【】という決まりをかたくなに守ろうとする。不快だった。いっそその汚れた手で、自らを犯してくれた方がマシだというのに。

 瑞綺はすんでのところで女を押しやった。女は勢い余って、床に尻餅をつく。瑞綺はその人のなりをした生き物に、机上に並んでいたナイフを当てがった。


「次同じことをしたら殺す」


 そう低く脅しても、女はねっとりとした笑みを浮かべるだけだった。遠くでくぐもった笑い声が聞こえる。まるで無駄だと諭すようだった。お前はこの矛盾ある循環ループから抜け出せないと、揶揄やゆしているようだった。


「もう用はないですよね、下がらさせて頂きます」


 瑞綺は吐き捨てるようにそう言って、部屋を後にしようとする。それを男は柔和な声で止めた。


「これを」


 瑞綺は振り返り、その紙切れを受け取る。


【Invitees List】

[Royalty]

No. 13914914192 Anri

No. 137187149168 Noel


「君たち二人は、私たちの光だ。必ず出席するように。

 良い結果を期待しているよ」


 吐き気が込み上げた。自分たちは物なのか。お前らを美しく飾るための宝石なのか。そんな言葉が脳内を駆け巡る。しかし気がつけば、弱々しい己は口角を上げ、にっこりと微笑んでいた。


「ご期待に添えるよう頑張ります、父上」


 あぁ私には変えられぬというのか。ならばいっそ知らなかった方が良かったのかもしれない。あの手が届きそうなほどの星空も。あの騒がしくも幸せな日々も──


 外に出る。しんと静まり返った廊下に、自分の影だけが伸びていた。それをぼんやりと見つめながら瑞綺はふと、有名なとある文章を思い出す。



.・━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━・.


恥の多い生涯を送って来ました。

自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。


つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、

という事になりそうです。

自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、

まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、

転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。


自分は、いったい幸福なのでしょうか。


つまり、わからないのです。

隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。


そこで考え出したのは、道化でした.

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。


つまり、自分は、いつのまにやら、

一言も本当の事を言わない子になっていたのです。


人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、

また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、

そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、

その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、

ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、

次第に完成されて行きました。


 『人間失格』 太宰治


・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・



 涙が溢れた。嗚呼、私はなんとつまらない人生を送っているのだろうか。その人生のなんと、惨めで、薄汚いことか──

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