セピア色の涙、あの日の邂逅
「あの日、君たちを外に連れ出したのはニア、そうだよね?」
カチャン──
ティーカップと皿が擦れる音が響く。リタはその瞳から呆然と涙を流したまま、何も語ろうとはしなかった。沈黙が、また世界を支配する。
「………違うわ、ニアじゃない…………私なの……私…………だった…………」
彼女は微かに声を発して、しかしまた口を閉ざす。
「なんで…………なんでそう思うの…………?
あなたは……私たちのことなんて、何も知らないのに……」
涙は止まりそうになかった。
ふと、目の前にいる女が、一昔前の自分と重なって見える。
あの日。蒼牙も泣きながら、自分のことを知ったように話す女にそう叫んだ。彼女はその瑠璃色の瞳を微かに見開き、そして、微笑んだ。困ったような、哀しいような、淡い笑み。自分は虚を突かれ、やがて泣き崩れた。その笑みに映るのは、
「…………知ってるよ」
「え」
だから今は素直に伝えてみよう───あの日彼女がやったように。今度は自分の番だと、そう、頭の何処かで悟っていた。
「忘れるわけないよ───だってあの時の二人の顔は、本当に幸せそうだったから」
『ねぇ、あなたにも聞かせてあげる。私たちね、明日空を見に行くの』
『きっと素晴らしい日になるよ───ね、ハンナ』
『ふふ、楽しみねレン』
揺らめく視界。狭い水槽の中、全身をコードで繋がれた少年は、その言葉をぼんやりと聞いていた。詰まらない。そう思い吐き出した息が水泡となり、ぽっくりと口から溢れる。しかし二人はそんな少年を見て、「笑ってくれた」と笑みを零した。
不思議だ、人という生き物は。都合よく生きている。欲望を愛だと、優しさだと決めつける。嗚呼でも何故だろう、それはとても温かい───
リタは目の縁に涙を溜めたまま、驚いたように蒼牙を見ていた。
「僕は、君たちのせいで苦しい思いをした。それは事実だよ。
君たちを許そうなんて思ってないし、勝手に許されたと思われるのも御免だ」
蒼牙はそう呟くと、自らの心臓を皮膚の上からそっとなぞる。
もう幾年も前の話。政府の研究室から逃亡を図った者がいた。
彼らは監視の目をすり抜け、外の世界へ『本当の空』を見に行こうとしたのだ。
彼らは計画を実行するために、生み出した人造人間に細工を施した。編成した人造人間の遺伝子を組み替え、暴走させたのだ───無論細工を施した二人の研究員はその後直ぐに射殺されたが。
「でも、君たちのおかげで大切な人に出逢えたから」
蒼牙は微かにそう呟くと、息を吐くように微笑む。リタの瞳から、先ほどとは少し違う色をした涙がこぼれ落ちた。
『こんばんは───
ご機嫌いかがと聞きたいところだけれど、
今はそんなこと言ってられる場合じゃないね』
『落ち着いて───大丈夫、君は絶対生きるよ』
『僕の名前? はは、確かに名乗ってなかったな』
『一つだけ、お願いしても良いかい?
もし万が一、僕に何かあったら───』
『蒼牙、妹を頼む』
月がただただ美しかったあの日。月に最も近い場所で、あの人は死んだ。最期まで聡明で、穏やかな人だった。
「過去はどう
苦しいかい? そうだろうな、苦しいよ。僕だって」
叶わないことばかりだ。大切な人との幸せな生活。誰にも
───どうして何も叶わない?
リタは微かに何かを言いかける。しかしその言葉が彼に届くことはない。
「もし自分があの時逃げなければ?
もしあの時自分が何か一言言えていたら?
───もしあの時死んだのが、大切な人じゃなくて自分だったら?」
蒼牙はリタに畳み掛け続ける。しかしそれは自分自身に言い聞かせているようにも思えた。
「………」
リタはまた黙りこくって下を向く。その瞳が朧げに揺れる。
「でももう遅いんだよ、全部。
あの人は死んだ、自分は生きた。それだけ」
彼がポットを手に取り、紅茶を継ぎ足す。その水面に、情けない顔の女が映っていた。
「じゃあ君に何が出来る? 生き残った者として何が出来る?」
ガサガサになった肌。乾いた唇。
「君の大切な人が望んだものは、一体なんだった?」
『みんな、絶対この計画を成功させるわよ』
『もち! 恨みっこはなしね!!』
『ほらリタも来いよ、みんなで円陣組もうぜ』
『そんな目立つことしたらバレるって』
『良いじゃん楽しそう。最後の夏なんだしやってやろうぜ』
『じゃあいくよ〜!!』
『私たちは新婚旅行で、【本当の空】を見に行きます!!』
『ほんとうの……』
『……そら??』
『リタ気にしないで。僕たちは家族なんだから』
『そうよ。それにみんなで見に行った方がきっと楽しいわ』
『ね、リタ、ニアのことは頼んだよ。
あたしじゃきっと目を付けられちゃうと思うからさ』
『じゃ、行きますか。青い空を見に───』
碧空に突き上げた拳が揺れる。大切な人の笑い声が聞こえる。
答えはいつだって一番近くにあったはずだった。なのに、気付かなかった。否、気付こうとしなかった。怖かったから。あの日の自分と向き合うのが、怖かったから───
「私は、空が見たい。もう一回、青い空を、笑顔で、見たい、です」
咳切ったようにまた、涙が溢れ出した。リタは顔を覆い泣きじゃくる。
あの日から、青い空を見られなくなってしまった。うざったい程の晴天に、耳を閉ざしてしまった。
「私は、ニアに、みんなに、もう一回、逢いたいッ………!!」
もし過去に戻れるのなら。もう一度人生をやり直せるのなら。私は何を望むだろう。研究者ではない別の仕事に就きたいと願うだろうか。哀しい思いをしないように、彼らと関わらない道を選ぶだろうか。いや、違う。私は。私は何度生まれ変わっても、何度苦しい思いをしたとしても。
───みんなと生きたい。
「決まったね、じゃあそうすれば良い」
目の前の青年は、彼女の声にただ微笑んでいた。その笑みはどこまでも優しく、温かい。その笑みが、大切な少年と重なって見えた。
『どんなものだって愛情を持って育てたら、ちゃんと応えてくれるんだから』
あの日の少女の声が聞こえる。今はその言葉を、素直に信じてみようと思った。
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