門出

 そっと屋根代わりに敷いていたブルーシートをがす。その刹那に広がる瞳いっぱいの青に、リタは目を細めた。


 


 彼女は微かに溜息を溢すと、ふと口元に笑みを浮かべた。不思議と心は晴々としていて、今はその美しさが何処か懐かしい。


 リタは綺麗にブルーシートを畳むと、それを脇に寄せ辺りを見回す。ほとんど何も無い家だ。食事は長らく生物なまものしか食べられていない。蜘蛛の巣が張り巡らされた小さなコンロ台の隙間を、埃がふわふわと 舞っていた。

 リタはそのキッチンにそっと近づくと、埃を手で拭う。瞬く間に真っ黒に染まる手を見やり、シルバーのシンクに反射する自身の笑顔にまた息を溢した。


 


 持つものは特に何もない。何か人を呼び寄せる必要もない。


 



「よぉ姉ちゃん、久しぶりだな」


 その声はリタの背後から聞こえた。音もなく現れた彼らは、殺気だったそぶりも見せずそこに立っている。リタよりも幾許いくばくも背の高い彼らが微笑んでいるのはきっと、とっておきの人質を手にしているからだ。


桃李とうり


 リタが青年の名前を呟くと、彼はにぃーっと口角を上げる。


「おねーちゃん、綺麗になったのね。写真で見たのとは大違い。

 あーし、今のおねーちゃんの方が好きかも」


 桃李の隣に立っている大柄の女が、無邪気にそんなことを呟いた。



 リタが彼女に感謝の意を伝えると、翠蓮すいれんと呼ばれた女は目を見開く。


「あーしの名前、知ってるんだ」

「もちろん」


 彼女はその問いかけに頷くと、縮れ薄汚れたワンピースの端を指で摘み、上品な所作で頭を下げた。


「は、随分余裕そうなツラじゃねーか」


 桃李がリタに近づく。そしてその手を取った。


「行くぜ」

「えぇ」

「おねーちゃん殺しちゃうのもったいないな〜

 あ、そうだ。おねーちゃんが死んだら実験材料にしてあげる。

 きっとあーしのねーちゃんも喜ぶからさ」


 それはあまりにも穏やかな死出の旅。


 リタの瞳に映っているのは、ただ鮮やかな碧空だけであった。



「はい」


 通信機からの連絡に、間髪入れずに応える。


「もしもし、

「良いの気にしないで、

 彼女に伝えたいことは伝えられたかしら?」

「うん、ありがとう」

「そう、なら満点よ」


 彼女はそう呟くと、そっと視線を上げる。辺りにひらり、はらりと舞い落ちる孔雀の羽。暗闇の中、その鮮やかさだけが映える。


「そっちは上手くいきそう?」


 通信機の向こう側で心配そうな声色が響く。


「えぇ………少し予想外のことがあったってことくらい」


 彼女は少しまどってからそう囁いた。相手はそれを聞くと、「気をつけて」と短く残し通信を遮断する。



「……蒼牙そうがは充分やってくれた。───ね、れい



 女はそう言い聞かせると月明かりに揺れる青年を見上げる。




 その日この街の空には、枯れることのない美しい月が輝いていた。

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