Tick The Second Hand

あの日の真実

 冷たい雨が降っている。

 彼女はその中を懸命に走っていた。春を迎えたとはいえ、雨は未だ冷たく、彼女から温もりを奪っていく。その凜々とした冷たさが黙示したのは「無常」、ただそれだけだった。これは日常であり、非日常。理想であり現実。天国であって地獄なのだ。彼女の口から荒い息遣いが漏れるたび、髪から水が滴る。血だまりが驟雨しゅううと混じり、せ返るよう広がった強い香り。その中で轟く爆音と悲鳴。意識の奥で甲高い警報音が響いていた。 

 彼女は震えながら辺りを見渡し、細い路地裏を見つける。縋るような気持ちで、その道に転がる屑籠の影に身を潜めた。しゃがみ込んで自分の吐息を数える。一、二、三……いつまで続くだろう。どれだけ息をすれば、この天国地獄は終わりを迎えるのだろうか。滴る雫。不規則に響く鼓動。地面に広がる波紋。同じだ。いつの日かに見た景色と同じ。変わらない。閉じ込められているのだ。この檻に。この世界に。


「おいおい…ふざけんじゃねぇぞ?」


 二十四ほど数えた頃合いだっただろうか。その声は彼女のすぐ近くで響いた。彼女が走ってきた大通りに、一人の青年が立っている。路地の細い隙間から見える青年の髪は、人工的なピンク色だった。彼女の身体が強ばる


「せっかくここまで来てやったっていうのによぉ?」


 青年の指先からは、鉄で出来た鋭利な爪が伸びていた。それは鈍い色を放ち、不気味に輝く。彼女は目を伏せて、身体を縮め込ませた。見つかったら終わりだ。青年が路地裏の前を通り過ぎていく。コツコツと足音は一定のリズムを刻み、止まった。


「……つまんねぇ」

「──!?」


 舌を鳴らす音が彼女の耳に刺さる。心臓を握りつぶされたかのように、息が詰まった。見つかったのか。私は殺される……?


 しかし彼が路地裏に足を向けることはなかった。疾風が巻き上がり、血の雨が降る。誰かが来た。


「…桃李とうり子供ガキを虐めるのはやめろ」


 ピンク髪の青年の横に現れたもう一人の人物は、死体を道に投げ捨ててそう呟く。


「…おめぇかよ、緋澄ひずみ


 桃李は忌々しそうに吐き捨てると、爪に突き刺さったを放った。は美しい放物線を描き、彼女の僅か後方に落ちる。ぐしゃりと臓腑が潰れる音がした。反射的に漏れそうになる悲鳴を、首を絞め上げて堪える。そこには、変な方向に首がねじ曲がった幼子が倒れていた。抉り抜かれた瞳。切り落とされた耳。縫い合わせられた口…戦慄と悪寒で身体が震える。


「もう今日の時間は終わりだ。帰るぞ」


 緋澄は桃李にそう語りかけた。その言葉に彼女の緊張が解けていく。終わった。終わったんだ。今日の【狩り】は終わったんだ…今日も生き延びたという安堵と、今日も生き延びてしまったという憂鬱が胸を突く。彼女がそっと大通りを伺っていると、二人の会話が耳に飛び込んできた。遠くで雷鳴が泣く。


「…そういえば、

「…湖白が…… 。 」

?」


 言葉は容易に聞こえたはずだった。なのに思考が停止し、記憶という名のデータにヒビが入る。聞こえない、何も。否。聞こえているのだ。しかし、頭で理解していても、心では理解出来ないものがある。聞きたくないと、認めたくないと、願うものがある。


「まぁ良いさ…どっちにしろ遊ぶには最適の玩具おもちゃだ」


 緋澄の話を聞いて、桃李の片頬が上がった。雨が頬を流れていく。このまま自分も流れて消えてしまえば良いのに、そう思った。この世界に向けられた懺悔の気持ちと、一筋の希望もない心と共に…


「……


 桃李がそんな事を呟く。まるで、彼女がここにいる事を勘付いているかのように。彼ならばきっと、この場で無力な女を殺すことなど動作もない事だろう。なのに彼は何もしない。女を誘うかのように、陰湿な笑みを浮かべ手をこまねいている。聞きたくない。認めたくない。だから聞かないように心を閉ざした。理解する必要などなかった。この人のなりをした男の言葉にも、自分の内で叫ぶ惨めな女の声にも──



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 ─────。




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