身に余る幸福、また不幸


「じゃあ、私はここで」


 少女は律儀に瑞綺みずきを送り届けると、きびすを返して雑踏の中に消えていった。瑞綺はその後ろ姿を見送った後、背後にそびえ立つ壁をゆっくりと見上げる。それは人類の不積を語るもの、罪の重さを告げるものだ。瑞綺は微かに溜息を漏らすと、今日見た街の様子を思い返す。【狩り】により、ゲヘナは破壊と混乱の最中にあった。道には腐乱臭に塗れた死体が溢れ、生存者たちがそのむくろから衣類や髪をむしっていた。ゲヘナ。名前の通り地獄のような街だ。しかし、それが理想の外側に存在する真実。進化を見誤った人類の負の遺産だった。瑞綺が街を見聞している間、一体どれほどの人がその細い腕を伸ばしたことか。その腕は時に救いを、時に金品を、時に慈愛を、時に死を求めていた。瑞綺がいくら手を尽くしても、生き返らない者は生き返らないし、誰かの心を抉った傷が消えることもない。一人を助けたからと言って、万人が救われるわけではない。瑞綺が彼らのために出来ることはほんの僅かなことしかなかった。

 内側の人間がその絢爛けんらんさと甘やかさに酔いしれるとき、外側の人間はその貧相さと苦しさに目を閉じる。それは今この時も変わらない。こうやって思案している合間にも、人は一人、また一人と命を落とす。それを安寧に浸り夢幻を漂う人間が知る由もない。無論瑞綺も知らなかった。──

 ゲート前に足を運ぶ。風が吹いた刹那に、無機質な空気の香りを感じた。瑞綺はその人工的に作られた爽やかさに顔をしかめる。外に出るようになってから気付いた、この街の美しさは完璧すぎる。瑞綺は来た時と同じ門守に近づくと、先程のカードを差し出した。そこには【アンリ】という名前が刻まれている。アンリ。彼はこの本名をんでいた。彼にとって、【アンリ】という名は自らを縛る鎖でしかない。アンリ。その名前を聞くたび、自分は途方もなく高い場所に来てしまったのだと思う。アンリ。嫌いだ、この名前が。

 門守はカードを確認すると、そそくさとゲートを開く。瑞綺は中に足を踏み入れると、目深に被っていたベールを剥ぎ取った。控えめに光っていた金色こんじきの髪が宙を舞い、美しい碧眼がその煌めきを増す。白い肌に桜色の唇。男とも女とも似つかない中性的な容姿。神は二物を与えずという言葉を凌駕するほどの絶美。彼は肩に落ちる髪を一つにまとめると、家に向かって歩き始める。その視界の中に、見知った人物の姿を捉えた。


「珍しいね、しまがわざわざ迎えにくるなんて」


 瑞綺がそう声を掛けると、壁に身を預けていた青年は嘆息を漏らす。真っ直ぐに伸びた黒髪がさらさらと流れ落ち、その端正なかおに影を作った。


「何故俺に何も告げずに出て行く?」


 呆れたように呟く青年を前に、瑞綺は肩をすくめてみせる。風が吹き、その黒い髪の隙間から真紅の瞳が覗く。その鋭い眼光に臆することなく瑞綺は、


「行き場所はちゃんと伝えてるだろ」


と返した。


「ふぅん、行き場所が分かれば何時如何なる時も勝手に出て行っても良いと?

 は、なら子供ガキ共は今頃全員行方不明だな」

「悪かったよ、君に出て行くことを伝えても、拒まれると思ったんだ」

「今がどんな時期か分かっているのか、試験まで一週間を切ってるんだぞ」

「知ってるよ、縞は試験を気にするような野暮じゃないってこと」


 瑞綺が御託を並べると、縞は壁から身を起こしその白磁気のような額を指で弾く。鈍痛が脳を揺らすものの、不思議と優しさを感じる痛みだった。


「誤魔化すのにこっちは一苦労してんの」


 心底呆れたように声を漏らす縞。その声音に心配していたかのような色が滲む。


「ごめん」


 それを感じた瑞綺は、素直にそう謝った。今週末、アムネジアで全国民を対象にした能力テストが行われる。このテストに向けて、街は異様な緊迫感に包まれていた。それもそうだろう。この試験で自分の今後が決まる。点数が以前より高くなればより良い職と環境に。点数が以前より低くなれば、今までの職を失い街の外れへと追いやられる。人々は綿密に区別され、それぞれ決められた道を歩むこととなるのだ。

 瑞綺が反省の色を示していると、縞は僅かに笑みを溢す。底知れない妖しさのある艶やかな微笑みだった。瑞綺とは異なる真っ赤な唇が、妖艶に光る。


「一応、この前の試験で俺に負けたので発狂してますって伝えといたから」


 その唇から、少し意地の悪い声が漏れた。瑞綺は眉をひそめ反論の意を唱える。


「それは心外だな、総合では僕の方が一回分君を上回っているだろう?」

「さぁどうだったか」

「いや絶対にそうだ、1786勝1785敗」

「相変わらず異常な執着心をお持ちのようで」


 瑞綺がそう呟くと、縞はおどけたように笑った。彼だって瑞綺同様、今までの成績は覚えているはずだ。しかしそれを敢えて語ろうとしないのは、勝ち負けに執着がないのか、或いはムキになる瑞綺を見るのが楽しいのか。


「それはもう知ってることだろ。テストにおいても、この件においても」


 瑞綺は縞の言葉にそう返すと、視線を逸らした。気付いている。こんなにも聖都市を否定しながらも、自分もまたその荒波にまれ、もがき、どうにか縋りつこうとしているということに。ゲヘナの方が美しいと語っておきながら、自分がその場所に流れ着いた時の未来を想像出来ないということに。あの痩せ細った人々のように、人の亡骸さえ喰らうしかない状況に堕ちる覚悟さえままならないことに……


「それにしても。

 君がここに来たということは、何か大切なことがあるんだろう?」


 瑞綺は自分の心に蓋をする様に話題を転じた。縞は彼の問いかけに顔をあげ、少し表情を歪める。それだけで、瑞綺はその心中を察した。


「父か」

「テスト明けの晩、共に夕食ゆうげを取りたいそうだ」

「…そう」


 短く返事をする。


「予定を調整するから、後で伝えに行ってくれ」


 瑞綺は顔色ひとつ変えずそう告げると、先に歩き始めた。


「…瑞綺、断るか?」


 背後で縞が呟く。瑞綺の足が止まる。幾らでも言い訳をすることは出来た、けれど。


「…良い、せめて上辺だけでも仲良くしておかないとな。

 あとに何かあった時に困る。」


 嘘だ、結局は縋っているのだ。絶対的な力を前に跪き、安寧を手にしようとしている。裏切られることを怖がっている。

 


「何かあったら言えよ、瑞綺」


 縞が肩を並べ名前を呼ぶ。彼はその言葉に曖昧に笑って見せた。瑞綺。その名もまた、身に余る。

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