空の青さを知る者

「ごめんね、また呼び出しちゃって」


 真っ直ぐ咲穂さほの方へと歩いてきた青年は、彼女を見つめそう囁く。ベールで見えなかったシアン色の瞳が、咲穂の姿を捉えた。綺麗な目──顔を合わせる度咲穂はそう思う。この青年の目にはいつも、絶え間ない青空が広がっていた。例え雨の日であろうと、槍が降る日であろうと。どこまでも澄み渡ったその瞳は、ただ幸ある未来を見つめている。青年はほうけた咲穂の顔を見て、僅かに肩を揺らした。彼の名を瑞綺みずきという。微かに振動した空気が、薔薇の芳香を運んだ。


 咲穂が瑞綺と出会ったのは、まだ『Punicaプニカ』で働き始めてそう月日の経たないある日のこと。「嫁が瓦礫に押し潰されてしまった」と泣きながらやって来た依頼人の家の前で、一人では収拾のつかないほどの瓦礫の山と、そこから僅かに見える血に濡れた腕を呆然と見つめていた時、彼は「手伝いましょうか」と声を掛けて来た。その日の出来事は今でも鮮明に覚えている。一瞬誰もが息を止めて青年を見ていた。天使だ。誰かがそう呟く。それほどにまで彼は美しく、まるで神と見まごうかのような気迫を纏っていた。

 咲穂は微笑みながら声を掛けた彼をじっと見つめる。健康的な体付き、艶のある髪、その優しげな眼差し。ここで暮らしている者ではないことなど、一目見た瞬間に分かった。

 依頼人は「こんな奴に助けられるなんて屈辱以外の何者でもない」と憤慨したが、咲穂には頼ること以外の選択肢を見つけられなかった。


 果てしない量の瓦礫を三人で掻き分け、やっと女を救出する。しかし彼女は見るも無残な姿に変わり果てていた。四肢は千切れ、目は潰れ、もう息をすることすらままならない。瓦礫に埋もれていたのだ、生きていたことだけがせめてもの救いだった。咲穂はこれで依頼は完了したと依頼人に声を掛けようとする。しかし目の前で嗚咽を漏らす依頼人にそんな非情なことを言えるわけがなかった。仕方ない、そうだ仕方ないのだ。仕方ないけれど、苦しい。慰めることも、傷を癒すことも出来ない。世界が色を失くす。モノトーンの世界で、ただ誰かの嗚咽だけが聞こえていた。事実を受け入れて関係を絶てば良いのだ。とんだ災難だったとその肩を軽く叩き、何事もなかったかのように去れば良いだけ。なのに、目の前で泣いている者を見ると足に何かが絡まって動けなくなってしまう──そんなことをしていたら、自分の命すら危ういにも関わらず。


 依頼人の咆哮ほうこうは、天にまで届くようだった。それをじっと見ていた青年は、ふと思い立ったかのように場所を離れ、袋を持って帰ってきた。閉じ口をほどくと、中からここでは決して見ることが出来ないような代物が出てくる。上質な水。脂の乗った干し肉やチーズ。綺麗な包帯と高価な薬。青年はそれを惜しむ素振りも見せず、全て女のために費やした。傷口を手当し、水を飲ませ、「目覚めたら食べさせるように」と食料を渡した。依頼人は地に伏せ、青年に感謝する。彼はその細い手を取って、「どうか幸せに」と


 その帰り。咲穂は青年に感謝を告げ、何かお礼に出来ることはないかと尋ねた。彼は僅かに思案した後、にこりと微笑んで咲穂を見る。


「…じゃあこの街を案内してほしい。定期的に来ているから」


 そんなもので良いのか。咲穂は少し拍子抜けする。それと同時に青年の意図が見えず、不思議に思った。

 この街には何もない。ただ風化した瓦礫とついえた希望の残骸が眠っているだけだ。そんな絶望の淵を見て、青年に何の徳があるだろうか。それともその貧相な様をさかなに、酌でも取るつもりなのか。

 青年は咲穂の疑問に驚いたような顔をした後、少し表情を曇らせた。そしてじっと少女の瞳を覗き込む。宝石のように煌めく碧眼。その瞳は魅惑的で、咲穂の心をさらう。

 その時瑞綺が呟いた言葉が忘れられない。


「…見るためだよ」


…見るため?


そう。


──自分たちが犯した罪と、本当に美しい人々を見るためだよ。


その日からだ。彼の目が澄んだ空を連想させるようになったのは。



 咲穂は瑞綺と共に歩き出す。彼は【狩り】の後いつも、ゲヘナに足を運んでいた。


「…あ、それにしても。『白い孔雀White peacock』は見つかったの?」


 街を歩きながら、瑞綺がふと尋ねる。干されている麻地の衣類が風に吹かれて揺れていた。その上では、昨日の雨を忘れさせるほどの快晴が広がっている。咲穂はその空を仰いだ。


「全然。全く手がかりなしです」


彼女がそう告げると、「そっか」と短い返事が返ってくる。瑞綺は咲穂が知る中で、唯一『白い孔雀White peacock』を信じる同士だった。『白い孔雀White peacock』は伝説ではない。その意見を支持し、いつか会えるようにと応援してくれる。咲穂は彼とよく、『白い孔雀White peacock』について話した。


「どうすれば会えるのかな」


 もう『白い孔雀White peacock』を見てから一年ほど経とうとしている。なのに情報は一つも入ってこない。咲穂の独り言を聞いた瑞綺は、僅かに笑った。


「案外身近に潜んでたりして…なんてね」


 風が吹き渡り、遥か遠くへと流れていく。案外身近…か。そうかもしれない。この時も『白い孔雀White peacock』は近くで、咲穂たちの会話を聞いているかもしれない。そう思うと少し期待が湧き上がってくる。今日この時も、彼は生きている。


「……大丈夫、


 瑞綺は確信を持ったようにそう言って、彼女の頭を撫でた。男性にしては繊細な、細い手。彼女はそれに応えるように、顔をあげてにっこりと笑う。


「もちろんですよ、絶対会いに行きますから」


 『白い孔雀White peacock』…その名前を聞くたびに、胸が高まり鮮やかな記憶がさざなみを立てる。その心地よい苛立ちの中、チリン─と一回、鈴の音が鳴った。

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