笑顔と哀しみ

 その日の朝、咲穂さほは街に出掛けていた。雨上がりの空はにわかに明るく、薄い霧が立ち込めている。あたりにうずたかく積まれた遺体の山が、昨日の出来事を赤裸々に語っていた。吸い込む息も血をはらみ、肺にずっしりとおおかぶさる。咲穂はその香りに顔をしかめ、目を閉じた。

 死体の山の周りには、沢山の悲しみが渦巻いている。最愛の妻を失い喪失の彼方にいる夫。娘を殺されむせび泣く母親。両親にかばわれて生き残った子供…

 この場所で死はとても身近なものだ。『死ぬ』ということは決して悲劇などという瀟洒しょうしゃな物では無く、いつか誰の元にも訪れる『運命さだめ』だった。


 聖都市アムネジア。この場所には光と闇がひしめき合って存在している。世界最新鋭の技術を持って、か弱い人間を擁護ようごし管理する理想郷。この都市で暮らす人間は、政府アルカディアが掲げる能力値を満たしさえすれば、一生の快楽と安寧あんねいを手に入れることが出来た。AIが算出した、能力に見合った仕事に就き、能力に見合った報酬を貰い、能力に見合った生き方をして、老いて朽ちていく。その生活には苦しみも、後悔も、悲しみもなかった。どこまでも平和で、穏健な世界。しかしそれは混乱する社会の上に造られた、仮初かりそめの世界だ。

 アムネジアと壁を隔てて存在する深淵の地、ゲヘナ。壁の南部に当るこのブロックを、人々は『地獄』と呼称する。政府アルカディアの能力値を満たさなかった者、そして政府アルカディアに抵抗した者が辿り着く、泥黎ないりの都。咲穂たちはこの地で、壁の内を見ることもなく育った。


 狭い道を掻き分けるかのように、大型のトラックが入ってくる。中から降りてきた作業員は、まるでごみを捨てるかのような手付きで、遺体を荷台に投げ込んでいった。それを取り囲むかのように、別れを惜しむ泣き声が響く。咲穂はその様子を、唇を噛み締めながら見つめていた。助けたいと思っても、今の自分では助けられるはずもない。自分に何かを分け与えられるだけの器量が、財力が、心があるはずなど無かった。ここに生きる者は皆、今日を生きるのに必死で、他者に手を伸ばす余裕などない。だから被害者は決して、助けられぬ者を責めたりはしなかった。ただその瞬間が訪れれば、抵抗する訳もなく『死』を受け入れる。自らの運命だと、未来を諦める。それが余計、咲穂には辛かった。  


 この場所で【狩り】が行われたのは、昨日の夜のこと。昨晩だけで千を超える人間が命を落とした…たった六人の人造人間キマイラによって。【狩り】について政府アルカディアは、「我が国の発展に関わる重要な実験である」という。の能力値と成果を見極めるための、重要な実験。彼らにとってゲヘナで暮らす人間はただの不良品ガラクタであり、単なる実験材料に過ぎなかった。人権も平等も、平和もない。ただ目の前に立ちはだかる強大な力を前に、成す術無く命を手放す。


 車が発車する。女が、男が、子供が、手を伸ばす。突然の別れを惜しむかのように。明日は我が身かもしれないと思う恐怖に逆らうかのように。手を伸ばす。車が遠ざかる。地面に倒れ込む。嗚咽に体を震わせる。大切な人はいなくなってしまった。次は私だ。きっとそうだ、そうに違いない──


 咲穂はしばらくその惨状を見つめていたが、やがて踵を返し歩き出す。胸に残るのはくしゃくしゃと丸まったわだかまりだけだった。何か言葉を掛けた方が良かっただろうか。きっと生きられる、希望を持って欲しいと、そう言えば良かったか。しかしその言葉は、なんとも無責任なことだろう。

 咲穂は壁に沿って歩きながら、ふと『白い孔雀White peacock』について思案した。昨日『白い孔雀White peacock』はやって来たのだろうか。誰かを救うようなことはあっただろうか。自分とは違うその強かさと優しさで、誰かに光を分け与えたのだろうか。傍に聳え立つ壁を見る。五歩だ。この壁がなければ聖地との距離は僅か五歩。その五歩の中に、埋められない格差が存在していた。


 咲穂は唯一設置されている、壁の内外を繋げるゲートの前に辿り着く。しばらく待っていると、その巨大なゲートが音もなく開いた。中から人が出てくる。深く被られたベール。そのわずかな隙間から、はらはらとブロンドの髪が溢れていた。彼はゲートを潜ると、脇に立つ門守かどもりにカードを見せる。内側に暮らす者にのみ与えられる証明書だ。ゲートを潜る際には、あのカードが必須だった。

 外側の世界に足を踏み入れた青年は、辺りを見回すと咲穂を見つける。そして、花が綻んだかのような笑みを浮かべた。

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