不可解な依頼

 咲穂さほがドアを開けたのと、見知らぬ女性が店から出てきたのはほぼ同時だった。くすんだねずみ色の瞳と目が合う。依頼人だろうか。そう思って微笑みかけたが、彼女は逃げるように帰ってしまった。


「おかえり」


 咲穂がその素っ気ない反応に呆然としていると、店の中から上司の声が聞こえる。少し不機嫌そうな調子。そっと見やると、朱音あかねは依頼人用の椅子にふんぞり返り、長い足を組んでいた。


「仕事の時間なのに、一体どこをほっつき歩いているのかしら」


 彼女は不満そうにそう言って、煙草を口に運ぶ。やはり先程の女性は依頼人だったようだ。朱音が吐いた息が広がり、苦く甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。上司が仕事中に煙草を吸うのはいつもそう、苛立っている時だった。咲穂は返答に困り視線をらす。


 朱音には瑞綺のことを話していなかった。『Atroposアトロポス』は、あくまで『外側の世界』を守る組織。あの日偶然助けて貰った恩義があると言っても、内側の人間と関わることは逆鱗げきりんに触れる。とりわけ朱音は繊細で、内側の人間を心のそこから憎み、関わることを拒んでいた。


 咲穂が押し黙っていると、朱音は一つ溜息を漏らす。そして机上に溢れている書類の一部を差し出した。


「…言及しないんですか」

「えぇ、ここで生きる仲間だもの。

 一つや二つ、語れないこともあるでしょう?」


 咲穂がそう尋ねると、彼女は平然とそう返す。さすが上司だ、この街のルールを良く知っている。人とは必要以上に関わらない。言及しない。同情しない。ここでは弱みを持つことが、命取りに直結した。人に自分の弱みを見せること──すなわち弱みとなるようなものを作ってしまうこと。それは自らの身を滅ぼす行為。弱みにつけ込まれれば最後、ありとあらゆるもの吸い取られ、この街の藻屑の一部と化すだけであった。

 咲穂は気付かれないようそっと安堵の息を漏らし、その書類を受け取る。


「…捜索依頼、ですか」


 依頼内容の枠には、朱音の文字でそう書かれていた。


「珍しいですね」

「でしょう? 死ぬことはあっても行方知らずになるなんて」


【事件詳細】

 依頼人の息子ニアが行方不明になったのは、昨日の【狩り】以降のことである。その日彼女は市場へと買い物に出掛けていて、少年は一人で留守番をしていた。

 依頼人が買い物から帰る際に【狩り】が発生。その後彼女は帰宅したが、自宅に少年の姿はなく、行方知らずとなっていた…


 咲穂は文章に目を通しながら、その微妙な違和感を感じ取っていた。この終焉しゅうえんの地に転がっているのは、いついかなる時も【死】、それだけだ。ゲヘナに来たら最後、ここで一生を終える。誰も迎えになど来ない。善人も神も、悪魔でさえも。この街に微笑みを向ける者はいない。


「…遺体所は?」


 咲穂は今朝の凄惨せいさんな出来事を思い出しながら、朱音にそう尋ねた。

 残された者には、冥福を祈る場所は愚か、大切な人の歪んだ顔を拭う布切れさえ与えられない。遺体は街の裏路地に並べられ、一定の期間が過ぎればまとめて回収された。死んだ人間はただの腐った死肉。美しい思い出や、遺族の悲しみなどは関係ない。彼らは街に病を流行らせる病原菌の巣窟そうくつであり、街の景観を損なうただの汚物おぶつ

 生きている者と死んでいる者の差は大きい。


「私も聞いたんだけどね、どこにもいないらしいの」


朱音は咲穂の問いかけにそう言うと、何かを思案するように首を傾げた。


「怪しい香りがぷんぷんするわね…【狩り】の時分に人攫ひとさらいなんて無謀すぎる」


 【狩り】を行うのはChimairaキマイラ、人間を超越した人造人間である。見つかれば無論命はない。そんなこと、この街で暮らす誰もが知っていることだった。だから不可解なのだ。そのような向こう見ずな選択をしたこと自体が。


 咲穂は先程通ってきた方角を振り返る。無機質な白い壁を思い出す。可能性はあるだろう。でも、なんのために…?


「不本意だけど調べるしかなさそうね、向こう側のこと」


 朱音がそう言って、また一つ息を吐いた。もし政府アルカディアが少年を攫ったのなら、物事の筋道は通る。


「咲穂、あなたは依頼人の家をもう一回調べに行って」


 彼女はそう言って、もう一枚紙を手渡した。そこには手書きの地図が載っている。貧民街の中心にポツリと打たれた星印。これが依頼人の家のようだ。


「あ、あと。近いからここにもついでにお願い」


 ふと朱音がそう言って、鉛筆で星印を付け足す。


「…何のお店ですか?」

「【】よ、内のことを良く知ってて贔屓ひいきにしてるの。

 私は西で情報集めるから、東は咲穂お願い」


 その星印は、依頼人の家からほど近いところに打たれた。


「…わかりました」


 咲穂は朱音の指示に頷く。


「久々にちゃんとした依頼だからね」


 朱音は伸びをしながら、咲穂にそう言った。


「本腰入れて行きましょ」


 その口元が不敵に笑う。敵意に燃えて揺らめく翠の瞳。政府の化の面を剥がす又とない機会に、朱音はそっと微笑んでいた。


「…では、この世界の不滅と繁栄を願って」


 一言。上司の呟きに合わせ、咲穂は敬礼する。風が吹き、上司の髪に絡まる孔雀の羽が揺れた。


 「Atroposアトロポス」。咲穂はずっとこの組織に憧れていた。なぜならば。


─『白い孔雀White peacock』の耳で揺れたピアス。

 それは孔雀の羽だったからである──

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