第2章 Sleeping Gems

仕立て屋


 調査を開始して数日。咲穂さほの姿は貧民街の外れにあった。

 その手には、あの日上司から貰った地図が握られている。風は砂埃すなぼこりを巻き上げ、その橙色の髪を煌めかせた。少女はかすむ景色に目を細め、小さく溜息を漏らす。上司から端的な地図を貰ったものの、この地区は道が入り組んでおり、到底辿り着けそうもなかった。目立つ看板の一つや二つぐらい立ててくれても良いではないか…しかし、それでは他人の目に付いてしまうだろう。もしそれがこの地に来て尚謙虚な人間ならば問題ないが、そんな人は滅多にいない。ここに暮らす人なりの、生きるための秘策。部外者が悪く言うことは出来なかった。

 咲穂はもう一度地図を凝視した後、店がありそうな路地を見極める。彼女から見て左奥の道、あそこにしよう。もしここが外れだったのなら、一度上司のところへ戻った方が良さそうだ。彼女は残り僅かな運に賭けながら、道へと足を進め路地に入ろうとした。その時。


「ふにゃ!?」


 膝に何かが当たる感触がする。何かは奇妙な声を上げ、こてんとその場に尻餅を付いた。驚いた咲穂が足元を見ると、そこにはまだ年端も行かない少女が座っている。彼女は何度か大きな瞳を瞬かせ、やがてその縁に涙を浮かべ始めた。咲穂と目が合う。微塵みじんがまた舞い上がり、視界がおぼろげに揺れる。しかしその瞳は、光が差し込んだ水面のように美しい光を放っていた。アクアマリンに染まった世界の中で、自分の姿が揺れる。咲穂はその瞳に目を奪われたが、やがて泣いている少女をあやすように屈み込んだ。


「ごめんね…怪我はない?」


 そう尋ねると、少女はチラッと視線を上げる。しかしまた下を向くと、ぽろぽろと涙を溢した。小さな白い手が懸命に涙を拭っている。困り果てた咲穂は、そっと手を伸ばしその頭を撫でてみた。薄い桃色の髪。子供にしては珍しい。染めているのだろうか。

 しばらくその髪を撫でていると、少女はいつの間にか泣き止み、咲穂に擦り寄ってきた。


「どう? 落ち着いた?」


 咲穂がそう尋ねると、彼女はこくりと頷く。小さく暖かな感触が、腕を介して伝わってきた。子供に触るのは久しぶりだ、この街には子供が少ない。


「ふふ、可愛いね」


 そっと抱きしめてやると、頬を柔らかく細い髪がくすぐった。この少女は一体どこからやって来たのだろう。咲穂がそっと少女を胸に抱き、近くに建物はないかと辺りを見回そうとした…刹那。


「ねね、一人で出歩いたらダメだって言ったでしょ?」

「───!?」


 。咲穂は驚いて数歩後ずさる。気付かなかった。いつ誰に命を奪われても可笑おかしくない世界。ある程度の気は配っているはずだ。なのに。


「ねねに何かあったとき、怒られるのは僕なんだから」


 褐色肌に掛かる青味がかった黒髪。その隙間から薄花色うすはないろの瞳が覗いていた。獣のような瞳だ。優しげなのに鋭い。

 青年は咲穂を気にする素振りも見せずに歩み寄ると、腕の中の少女をつつく。どこか冷ややかなその青い瞳は、困ったように笑っていた。


そうにぃ!」


 ねね、と呼ばれた少女はそう叫ぶと、青年に手を伸ばした。咲穂は事態を呑み込むことが出来ぬまま、少女を青年に引き渡す。ねねは彼の腕に収まると、満足げに微笑んだ。


「ごめんねー、迷惑かけちゃって」


 青年はねねの頭を軽く撫でながら、咲穂にそう笑いかける。しかし彼女はその声掛けに、謙遜することも笑い返すことも出来なかった。


 この青年は普通じゃない。少なくとも咲穂たちと同じ──否、


「ん、どうした?」


 青年が心配そうに咲穂の瞳を覗き込む。背筋をぞわぞわと何かがうごめく。心を逆撫でされたような感触が伝う。


「あ、いえ」


 咲穂は張り付いたような笑みを浮かべると、そのまま来た道を戻ろうとした。遠くで鳥の鳴き声がする。壁に描かれていた極彩色の落書きが溶け出す。そんな錯覚を覚える。逃げろ。青年は確かに、──


 しかし咲穂が走り出す前に、腕が伸びて行動をはばんだ。ひゅっと息が漏れる。土埃つちぼこりが踊り狂い視界を奪われた世界で、咲穂は確かに殺気を感じた。


「ね、君朱音あかねさんにところの子でしょ」


 しかし彼が放った言葉は、何の変哲もないごく普通のもの。恐怖に怯える咲穂を他所に、あっけからんとそう尋ねる。


「へ?」


 いつのまにか恐々とした空気は風に飛ばされ、どこか遠くへと運ばれていた。獣のような鋭利な殺気は牙を仕舞い、大人しく地に伏せる。呆然とする咲穂に青年はにっこりと微笑み掛けて、


「朱音さんから話は聞いてるよ、良かったら入って」


と誘った。

 

 咲穂は愕然と青年は見上げる。今のは絵空事だと、妄想だと言うのか。それならばこの震える手は何だ。


「ほらー! 早く!」


 青年はそう言ってスタスタと先を歩き始める。咲穂は躊躇ためらいがちに頷くと、路地裏の奥へと進んでいった──拭えない畏怖いふの心に震えながら。



 青年にうながされるまま席に座る。名前を尋ねると、微笑みながら「蒼牙そうが」と名乗った。蒼い牙。その名は彼に相応しい。


「まさかこんなに若いなんて。君さいくつ?」


 蒼牙は興味深そうにそう言って、机に頬杖を付く。長い前髪から人懐っこい笑みが溢れていた。


「今十六です」


 咲穂は未だ動揺しながらもそう応え、机上の飲み物を口にする。カランと氷が音を立て、冷たさが喉をうるおした。


「十六、か」


 蒼牙はその言葉を反芻はんすうすると、ふっと目を伏せる。長いまつ毛が瞳に影を落とした。しかしそれも一瞬のことで、直ぐに笑みを浮かべる。


「あの、ここでは有力な情報を手に出来ると聞いたんですが」

「あぁもちろん、この前の【狩り】で起こった人攫ひとさらいの件でしょ?

 ちゃんと調べてあるよ」


 咲穂がそう聞くと、蒼牙は近くに置いてあったファイルを手に取る。どうやら、上司が事前に連絡を入れていたようだ。相変わらず抜かりない。


「あとはこれを裏付ける証拠があれば良いだけだ」


 咲穂はファイルを受け取ると、その文面を覗き込んだ。


【AM2:19、雨、黒、傘、ヒール、金髪、女】


【サファイアとルビーのオッドアイ、エンブリオ】


【以上の報告から、人攫いを決行したのは政府最重要人造人間キマイラ


【8cce9492】


 息を呑む。蒼牙を見上げる。


「これは本当のことなんですか?」

「僕、嘘は吐かない主義なんだ。信じていいよ」


 咲穂の脳裏を記憶がかすめる。鮮烈で残虐な世界の中、真っ黒な傘が咲く。



・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・



『人間なんて、ただのゴミ屑じゃない』


 そう言って、仲間を切り刻んだ女がいた。自分の身は自分で守れ。そう教えられ生きてきた。幼い頃からナイフや銃を持たされ体に染み込ませられた、。しかしそんなもの、本物の悪を目の前にしたらただのたわむれに過ぎない。


『哀れねぇ…でもいいわ、そのくらいが丁度良いのよ』


 傘の先から弾丸が飛ぶ。懸命に生きてきた細い体躯を骨もろとも吹き飛ばす。女の白い肌が赤く濡れた。


『貴方なかなか可愛い顔してるじゃない…持って帰って実験材料にしてあげる』


 友人が声にならない悲鳴を漏らす。

 廃墟と化した教会。その祈り台の影に身を潜め、少女は涙を堪えていた。

 自分が今生きているのかさえ分からない。ただバレないように、声を出さないように、その喉を締め上げる。痛い。呼吸が出来ない。死ぬのかと思った。このまま自分の手で、自らの命を絶って、死ぬ。


『8de795e4 、よく見てごらん。

 どんなに汚い世界にも、美しいものはきっとある。

 汚かったら磨くんだ。そして、何にも勝るものを掴み取れ』


 涙が頬を伝う。ごめん、信じられないよ。大切な人を失って。やっと手にした居場所も、やっと手に入れた友達も、蝋燭ろうそくの火を消すがごとく呆気なく消えていってしまった。磨いても磨いても、いつか壊れて粉々になってしまう。そういうものなんだよ…ねぇ。


「ねぇお兄ちゃん…」


 一陣の風が吹く。教会のステンドグラスが月夜に揺れた。顔を上げる。そこには。



───チリン



・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・



「…今から依頼人の家に行って確かめて来ます」


 咲穂は勢いよく立ち上がるとそう言った。そして蒼牙を気にすることもなく店を飛び出す。


 咲穂は一人だけ知っていた。黒のハイヒールを履いて、どんな時も傘を差している人。咲穂の全てを奪った人。


 咲穂はあの日から。


── 906c82f08e4582b982c882ad82c882c182bd 。




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