第2章 Sleeping Gems
仕立て屋
調査を開始して数日。
その手には、あの日上司から貰った地図が握られている。風は
咲穂はもう一度地図を凝視した後、店がありそうな路地を見極める。彼女から見て左奥の道、あそこにしよう。もしここが外れだったのなら、一度上司のところへ戻った方が良さそうだ。彼女は残り僅かな運に賭けながら、道へと足を進め路地に入ろうとした。その時。
「ふにゃ!?」
膝に何かが当たる感触がする。何かは奇妙な声を上げ、こてんとその場に尻餅を付いた。驚いた咲穂が足元を見ると、そこにはまだ年端も行かない少女が座っている。彼女は何度か大きな瞳を瞬かせ、やがてその縁に涙を浮かべ始めた。咲穂と目が合う。
「ごめんね…怪我はない?」
そう尋ねると、少女はチラッと視線を上げる。しかしまた下を向くと、ぽろぽろと涙を溢した。小さな白い手が懸命に涙を拭っている。困り果てた咲穂は、そっと手を伸ばしその頭を撫でてみた。薄い桃色の髪。子供にしては珍しい。染めているのだろうか。
しばらくその髪を撫でていると、少女はいつの間にか泣き止み、咲穂に擦り寄ってきた。
「どう? 落ち着いた?」
咲穂がそう尋ねると、彼女はこくりと頷く。小さく暖かな感触が、腕を介して伝わってきた。子供に触るのは久しぶりだ、この街には子供が少ない。
「ふふ、可愛いね」
そっと抱きしめてやると、頬を柔らかく細い髪が
「ねね、一人で出歩いたらダメだって言ったでしょ?」
「───!?」
その青年は、既に横に立っていた。咲穂は驚いて数歩後ずさる。気付かなかった。いつ誰に命を奪われても
「ねねに何かあったとき、怒られるのは僕なんだから」
褐色肌に掛かる青味がかった黒髪。その隙間から
青年は咲穂を気にする素振りも見せずに歩み寄ると、腕の中の少女を
「
ねね、と呼ばれた少女はそう叫ぶと、青年に手を伸ばした。咲穂は事態を呑み込むことが出来ぬまま、少女を青年に引き渡す。ねねは彼の腕に収まると、満足げに微笑んだ。
「ごめんねー、迷惑かけちゃって」
青年はねねの頭を軽く撫でながら、咲穂にそう笑いかける。しかし彼女はその声掛けに、謙遜することも笑い返すことも出来なかった。
この青年は普通じゃない。少なくとも咲穂たちと同じ──否、それ以上の何かを持っている。
「ん、どうした?」
青年が心配そうに咲穂の瞳を覗き込む。背筋をぞわぞわと何かが
「あ、いえ」
咲穂は張り付いたような笑みを浮かべると、そのまま来た道を戻ろうとした。遠くで鳥の鳴き声がする。壁に描かれていた極彩色の落書きが溶け出す。そんな錯覚を覚える。逃げろ。青年は確かに、自分を殺めようとしている──
しかし咲穂が走り出す前に、腕が伸びて行動を
「ね、君
しかし彼が放った言葉は、何の変哲もないごく普通のもの。恐怖に怯える咲穂を他所に、あっけからんとそう尋ねる。
「へ?」
いつのまにか恐々とした空気は風に飛ばされ、どこか遠くへと運ばれていた。獣のような鋭利な殺気は牙を仕舞い、大人しく地に伏せる。呆然とする咲穂に青年はにっこりと微笑み掛けて、
「朱音さんから話は聞いてるよ、良かったら入って」
と誘った。
咲穂は愕然と青年は見上げる。今のは絵空事だと、妄想だと言うのか。それならばこの震える手は何だ。
「ほらー! 早く!」
青年はそう言ってスタスタと先を歩き始める。咲穂は
◆
青年に
「まさかこんなに若いなんて。君さいくつ?」
蒼牙は興味深そうにそう言って、机に頬杖を付く。長い前髪から人懐っこい笑みが溢れていた。
「今十六です」
咲穂は未だ動揺しながらもそう応え、机上の飲み物を口にする。カランと氷が音を立て、冷たさが喉を
「十六、か」
蒼牙はその言葉を
「あの、ここでは有力な情報を手に出来ると聞いたんですが」
「あぁもちろん、この前の【狩り】で起こった
ちゃんと調べてあるよ」
咲穂がそう聞くと、蒼牙は近くに置いてあったファイルを手に取る。どうやら、上司が事前に連絡を入れていたようだ。相変わらず抜かりない。
「あとはこれを裏付ける証拠があれば良いだけだ」
咲穂はファイルを受け取ると、その文面を覗き込んだ。
【AM2:19、雨、黒、傘、ヒール、金髪、女】
【サファイアとルビーのオッドアイ、エンブリオ】
【以上の報告から、人攫いを決行したのは政府最重要
【8cce9492】
息を呑む。蒼牙を見上げる。
「これは本当のことなんですか?」
「僕、嘘は吐かない主義なんだ。信じていいよ」
咲穂の脳裏を記憶が
・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・
『人間なんて、ただのゴミ屑じゃない』
そう言って、仲間を切り刻んだ女がいた。自分の身は自分で守れ。そう教えられ生きてきた。幼い頃からナイフや銃を持たされ体に染み込ませられた、自分を守るための人を殺す術。しかしそんなもの、本物の悪を目の前にしたらただの
『哀れねぇ…でもいいわ、そのくらいが丁度良いのよ』
傘の先から弾丸が飛ぶ。懸命に生きてきた細い体躯を骨もろとも吹き飛ばす。女の白い肌が赤く濡れた。
『貴方なかなか可愛い顔してるじゃない…持って帰って実験材料にしてあげる』
友人が声にならない悲鳴を漏らす。
廃墟と化した教会。その祈り台の影に身を潜め、少女は涙を堪えていた。
自分が今生きているのかさえ分からない。ただバレないように、声を出さないように、その喉を締め上げる。痛い。呼吸が出来ない。死ぬのかと思った。このまま自分の手で、自らの命を絶って、死ぬ。
『8de795e4 、よく見てごらん。
どんなに汚い世界にも、美しいものはきっとある。
汚かったら磨くんだ。そして、何にも勝るものを掴み取れ』
涙が頬を伝う。ごめん、信じられないよ。大切な人を失って。やっと手にした居場所も、やっと手に入れた友達も、
「ねぇお兄ちゃん…」
一陣の風が吹く。教会のステンドグラスが月夜に揺れた。顔を上げる。そこには。
───チリン
・.━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━.・
「…今から依頼人の家に行って確かめて来ます」
咲穂は勢いよく立ち上がるとそう言った。そして蒼牙を気にすることもなく店を飛び出す。
咲穂は一人だけ知っていた。黒のハイヒールを履いて、どんな時も傘を差している人。咲穂の全てを奪った人。
咲穂はあの日から。
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