海月の骨、泡沫の夢。

 瑞綺みずきは薄暗くなった部屋に一人、その水槽の中を覗き込んでいた。硝子越しに一瞬、うつろな自分の姿が映り、消える。泡が、息が、形を成して、揺れる。


『その日のパーティーで、咲穂を助けてやってほしい』


 あの人の声が脳裏を過り、微かに息を溢した。反応するかのようにゴボリと、水浅葱みずあさぎの気泡が光る。月明かりに照らされた溶液は幻想的な色をまとい、黒く深い影をどこまでも伸ばしていた。


 何故。何故あの少女のことを気にするのだろうか。あの日確かにあった希望はついえ、美しくも人工的で、どこまでも孤高な瞳が語った、遠い未来の話。鮮やかな紅が舞う狂乱の世界。あの日の喜びは、無邪気さは消え失せ、あの日と同じ清廉さで、あの日と違う色を宿した瞳で、彼はあの子を守って欲しいと、そこに立っていた。何故。あの日は自分のために、一羽の鳥を箱庭はこにわから飛び立たせたというのに、今は自らがその鳥籠とりかごしばられようとしている。瑞綺には分からなかった。彼の真意が、心が、美しさが。思い出の中で眠る彼は琥珀のように温かな光をともし、瑞綺という一人の人間をそっと包み込んでいた。しかし今は、溶け出した甘い樹液に絡み付かれているような感覚さえ覚える。いつの間にかその距離は遠く、引き剥がされているような気がする。どこまでも近く、遠い。


「そろそろ行かないと、またしまに怒られちゃうかな?」


 息と共にそう呟いて、時計を見やった。公売会が始まってから、十分ほど。まだ許されるだろう。


「ねえ、君はどう思う?」


 水槽の側に腰を下ろし、何も語らない少年にそう問いかけてみる。声が反響し、自分に返ってくる。息を吐く。くだらないな、と、微かに笑ってみる。


「───


 私はずっと、あの人だけを見てきたの。

 あの人のために生きてきたの。

 苦しくても、悲しくても、あの人が笑ってくれるなら」


───笑ってくれるなら、いつまでも「」でいられたの。


 息が天に昇っていく。月が笑う。瑞綺は自嘲気味なかおをして見せたが、決して口を閉ざそうとはしなかった。言葉が溢れ出ては消え、消えては溢れ出ていく。


「ねえ、君は誰かを笑い飛ばさなきゃ自分を許せないような、

 くだらない人のことをどう思う?」


 忌み嫌う父の声が、人を狩り嘲笑う人形のわらい声が、脳裏をかすめていく。


「ねえ、他人の歩幅を眺めて意味もなく駆け足になる、

 つまらない人間のこと、君はどう思う?」


 麗の姿が思い浮かんだ。彼は死に急いでいる。駆け足で人生を終えようとしている。それはきっと。


 


 


 


 どこまでも続く薄暗い道で、愛おしいあの人しかいなくて。でもあの人には、どれだけ走ろうと、どれだけもがこうと、追いつけなくて。死ねもしないし、生きもしない。嗚呼、取り残されていく。ずっと、ずっと独りぼっちだ。


 嗚呼、それは何て哀しいのだろう。

 嗚呼、それは。


 


「ねえ、貴方は一体、人の何を見てきたの?」


 瞳を閉ざしたままの少年に微笑みかける。ガラスの表面に、曖昧あいまいに溶けた自分の姿があった。


「私に教えてよ」


 肩が震える。


「私にも、生きてる意味があるって、教えてよ」


 本当は分かっていた。自分に生きている意味などない、ということを。自分は自分という姿をもって、他人を演じ続けている。人は変わる。愛しいあの人も髪が伸び、風に棚引くようになった。自分を助けたあの人は、希望を見失ってしまった。しかし、自分はどうだろう。良いようにも、悪いようにも、あの日から何も変わらないままで。ずっと時の狭間に閉じ込められているだけで。


「きっと貴方の方が、私より何倍も、美しい人生を歩んでいると思うから」


 微かな願いを込めて、そうささやいた。


 もう戻ることは出来ない。あの人と出逢ってしまった。あの人のために生きると誓ってしまった。


「いつかきっと、私にも聞かせてね。

 貴方の、遠い昔の話」


 立ち上がって衣服を整える。僅かに瞳を閉じて、再び開く。世界は色を変え、日常に戻る。


「また来るよ。君を落とすのは、この僕だから」


 そっと水槽に顔を寄せ、その冷ややかな感触を確かめていく。


 

 月明かりはわびしげに光る涙をも昇華して、天に返した。

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