人の心を持つ者と、人でない者と。

朱音あかねさん」


 上司の後ろを追いかけながら、咲穂さほはそう声を掛ける。しかし彼女が振り返る気配はない。


「朱音さん!!」


 少し声を張ってみると、彼女はやっとのことで咲穂の方を見やった。翠色みどりいろの瞳はにわかに強張り、震えている。少女にはその恐怖が痛いほど分かった。いくら不調であると言えども、あの凄まじい力を見せつけられたら誰だって恐ろしいだろう。もし彼がゲヘナの地を踏めば、そこに残るのはだけ。自らが積み上げてきたものは、瞬く間に土に帰る。


「咲穂、貴方は同情してるの?」


 唐突に、上司の口から毒が漏れた。少女は息を呑み、その冷淡な声に狼狽ろうばいする。


「ち、違いますよっ……!!

 ただあんなに血を吐いてたから……」


 人混みを抜けた薄暗い廊下に低い声が走る。朱音は咲穂を壁に押しやると、その首筋に指を這わせた。長く鋭利な爪がその柔肌に赤い線を引く。ピリピリとした痛みが伝わる度、少女は発した言葉の重さを知る。


「良い? 人造人間キマイラに人の心はないの。

 誰かを慈しむことも、死を嘆くことも、憧れを抱くこともない」


 彼女の呼吸一つ一つが聞こえてくるほどの距離で、言葉が紡がれていく。


 


 少年の瞳を思い出した。視線が交わった時、彼は何と呟いたのだろう。嗚呼でもあの瞳は、自分にはどうしても。



 上司の瞳が、言葉が、声が思考を揺らす。その揺れ動く視界の中で、彼の瞳だけは変わらないままで───


「……ごめんなさい」


 やっとのことで言葉を紡いだ。朱音はその言葉に微かに瞳を見開くと、はたと手を離す。力が抜けてその場に座り込むと、辺りの酸素をむさぼった。久々だった。上司に叱咤しったを受けるのは。忘れていた感覚が一気に戻ってくるような気配を感じる。


『貴方、それで本気を出しているの? ありえないわ』

『良い? ここでは生と死しか存在しないの。

 そんなヌルい反応じゃ殺されるわよ?』

『まさか本当に。』


『まさか本当に906c82f08e4582b982c882a2なんて……』


 記憶が揺れる。


ごめんなさい。弱くてごめんなさい。

役に立たなくてごめんなさい。

同じことを何度も言われてごめんなさい。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…………


「……咲穂、私もごめんなさい……ついカッとなってしまって」


 朱音がそう呟き、少女の側に膝を付く。見つめられた瞳はいつもの輝きを取り戻しつつも。


 拭えない■■を宿していた。



 公売会で売られているものは、吐き気がこみ上げるようないやしいものばかりであった。


「お〜さすがさすが。

 こんな服も着こなせるなんて、

 わいの顔面偏差値どうなってるんやろな……ってあれ? ひーちゃん??」

「任務中にその名前で呼ぶのやめて貰っても?」

「い・や・だ♡」

「そうですか。では実力行使ですかね」

「はいはいはい! ちょい待ちちょい待ち!!」


 響葵ひびきは上司を適当にあしらいながらも、その上着に釘付けになっていた。一見見れば普通の衣装だ。極彩色の服は確かに、彼の容姿に馴染んでいる。しかしその皮はやけに生々しく温かいような気がした。


「ほんま、すごいなぁ〜

 これ、???」


 彼は姿見の前でくるっと回ると、無慈悲にそう投げかける。


「えぇ、詳しい出所は知りませんが」


 冷淡にそう呟いて、ふと帰りを待つ者のことを考えた。この人間にも待っている者がいたのだろうか。彼女の心はそれほど豊かではない。同情も悲しみも嫌悪の感情も、何も浮かばなかったが、漠然とそう思った。


 公売会が始まるのは、正味あと三十分ほどだ。会場の準備ができるまでは別室で、出品される品々を手に取ることが許される。瑚都こと響葵ひびきは公売会の参加者ではない身なのだが、特別に入室を許可されていた。


「で、今回の目玉はなんなんやっけ?」


 着ていた上着を脱ぎ元の位置に丁寧に戻すと、上司はにまっと笑みをたたえ彼女を見やる。


「ああ、アレですよ」


 響葵はそう言うと、多くの人が集まっている箇所を指差した。中央に置かれた筒状の水槽。


「なんとも十数年に生み出された人型撮影機カメラだとか」

撮影機カメラ?」

「ええ、ボタンを押すとその光景を切り取ることが出来るものですよ」

「へぇ〜なんかよく分からんけどスゴいもんなんやな」


 瑚都は興味なさげにそう呟くと、煙草に火を付ける。


 水槽を満たす青い液体。呼吸する度に漏れる泡沫。さざめく薄い金色の髪。


「でもさ、今思ったんやけど」


 ふと上司がそう息を吐いた。


撮影機カメラってことは記憶メモリがあるんやろ?

 それはどうしたん??」


 単純な疑問。しかしその言葉は響葵の胸を突く。彼女はうめき声のような相槌あいづちのような声を喉の奥から漏らすと、かすれた声で囁いた。


「大丈夫ですよ。

 回収したときに、記憶メモリ



 水槽の中で眠る少年は目を醒さない。



 ───そしてもう二度と、目醒めることはない。

 

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