空に知られぬ雪

 咲穂さほは、目の前でいびつに姿を変えていく少年を見つめていた。全身をしばるようにからまるあか紋様もんようが、まるで彼の体をはしる血液のように脈打ちあやしく光る。辺りの空気が圧迫され、歪んだ次元の隙間から数多あまた鬼魅きみがその手を伸ばしてくるようにさえ思えた。化物に成り果てようとしている彼の横で、その男はゆっくりと口角を持ち上げる。観衆は相容あいいれぬ恐怖と感嘆が混じったかおで、悪魔の仮面が剥がれ落ちていく様を呆然と見守っていた。

 

 風をはらみ宙を舞う赤髪は、血汐ちしおよりもあかく。


みやび


 ふと気付けば、彼の名が口からこぼれ落ちていた。咲穂は微かに息を呑み、はたと口を閉ざす。何故だろう。何故彼の名を呼んだのだろう。彼はこれから先、彼女の世界を破壊していくであろう敵であった。なのに。されども。


 もう一度、少年悪魔に目を向ける。その瞳はどこまでも哀しげであるような気がした。自分を、世界を、うれいているような気がした。神から授けられた力。自分が生まれ堕ちた意味。幾星霜の時を過ごす中で自分たちと同じように、彼もまた考えているような気がした。


「雅」


 もう一度。今度はしっかりと言葉をしたためる。甘美さも、高雅さも、全てその醜態を覆い隠すものであったとしても。例え彼が悪魔の子供であったとしても。


 その姿は、何ら人間私たちと変わらないと、そう、素直に、感じた。


 咲穂の声に反応するかのように、少年は彼女を仰ぎ見る。その瞳は優しさの琥珀色、そして孤毒こどくの紫色。


「─、──」


 桜色の唇が、何かを呟いた。その刹那。


「─────!?!?」


 雅は声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。苦しげに肩を大きく揺らせば、濡羽色ぬればいろの手袋にボタボタと赤が落ちる。それは先ほどの赤とは異なる、鮮やかで温かな色を湛えていた。


「あーあ」


 彼のすぐ隣で、心底残念そうな声が聞こえる。それはしんと静まり返った世界にしたたり落ち、空気を震わせた。


「ごめんねぇ〜最近色々いじってたからちょっと不調みたい〜」


 張り詰めた空気の中、へらへら笑うシド。しかしその瞳に慈愛じあいの色はない。

 彼は軽い調子で二回手を叩くと、「じゃあ公売会を始めます〜」と声を上げた。瞬く間に観衆が色めき立ち、どっと舞台上に詰め掛ける。その流れに逆らうことが出来ぬまま、朱音と咲穂も少年から視線を移す。


 姿



「畜ッ………生………!!」


 うように舞台袖へ入り込んだ少年は吐き捨てるようにそう呟くと、また数回咳き込む。息をする度に、肺が火傷したかのように痛んだ。雅は口元まで込み上げたものを、無理やり身体へ押し戻す。鼻に抜ける錆びた鉄の香りが、思い掛けず涙を誘った。


「畜生……」


 唇を噛み締め再びそう漏らす。乱れた髪を掻き回し、どこまでも高い天井を見上げる───溢れた涙が零れ落ちないように。


 生まれた時から、自由も、慈愛あいも、何も与えられて来なかった。唯一貰ったものがあるとすれば、この身を焼き焦がすような痛みと、何処か切り離された遠い眼差し。生まれた時から檻に閉じ込められ、強烈な痛みを伴う薬だけを打ち込まれてきた。言葉で抵抗すれば、「君を強くするために必要なことだ」と諭され、力で抵抗すれば、言葉には尽くし難い激痛を味わされた。この薬に負け人のなりを手放すか、この薬に順応し人のなりを手放すか。答えはいつも、二つに一つだった。


 ギュッと瞳を閉じる。脳裏にあの人を思い描く。嗚呼良かった。まだしっかりと覚えている。しかしいつまで思い出せるのだろうか。いつかは彼のことさえ忘れ、殺戮の快楽に身を委ねる日が来るのだろうか。少年には、雅には、その事が酷く恐ろしいことのように思えた。


「おい、大丈夫か」


 舞台袖にしゃがみ込み荒い息を漏らす彼に、何者かが声を掛ける。漢服を思わせる漆黒の軍服が、隙間風に棚引たなびいた。褐色の肌に掛かる烏羽玉うばたまの髪。威厳さを伴った藤黄とうきの瞳と、生命いのちを感じさせる銀朱ぎんしゅの瞳。緋澄は腰を屈め雅と視線を合わせると、そっとその額に手を伸ばす。


「触んじゃねぇ」


 しかし雅は冷淡にその手を振り払うと、青年を睨み付け毒突いた。緋澄ひずみはその反応を愉しむかのように首を傾げ、僅かに笑みを溢す。


「それだけの気力があるのならば大丈夫だな」


 それだけ呟くと、青年はすくっと立ち上がり歩き出してしまう。雅がその姿をぼんやりと視線で追っていると、彼が振り返った。


「やることが山積みだ。

 


 そう静かに告げて去っていく兄のあとを、雅はまだ覚束おぼつかない足取りで追いかける。死ぬことは怖くない。ただ今は生きていたかった。貪欲に生き続けていたかった───


 雅は遂に、少女のことを口に出さなかった。

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