アイの過剰摂取
公売会は何事もなく、淡々と進んでいた。広いホールに響く声に耳を傾けながら、
咲穂はその
上司に怒られたのは、あまりにも久々であった。振り返ることもない記憶が
この世界が残酷なことを知ったのは、兄を失って孤児院に入れられた日。夕焼けに照らされ七色に輝く教会の中で、一人の
この世界に神などいない───と。
生き抜くためには強くならなければならない、と。
それは紛れもなく、神が残した最後の宣告、そして遺言であった。
心のどこかで気付いていた。自分はあまりにも幸せに生き過ぎてしまった、ということに。兄が見せてくれた世界は、あまりにも居心地が良かった。ずっとあの温かさの中に沈んでいられると、そう安直に考えていた。安直? 否。本当は気付いていたはずだろう? 育った家にはいつも
ゆらゆらと灯が揺れている。その景色があの日と重なっていく。
夕日を背に河川敷を歩いたあの日。疲れておんぶを
「逢いたいよ、お兄ちゃん」
静かに呟いてみる。滲んだ景色はセピア色に染まっていた。
◆
カチリと音が鳴れば、薄暗い廊下に炎が揺らぐ。
しくった。彼女の顔を見たとき、最初にそう思った。瞳は恐怖一色に染まっていて、触れた喉はピクリとも動かなかった。
『良い?
誰かを慈しむことも、死を嘆くことも、憧れを抱くこともない』
ついさっき自分が放った言葉を
「すみません、火、頂いていいですか」
ふと、そんな声がした。驚いて顔を上げると、
「ライター、切れてしまって」
そう呟いてライターをカチカチと鳴らす青年は、この夜、この月夜を身に
「あ、えぇ」
朱音はしばらくの間呆然と立ちすくんでいたが、そっとライターを手渡す。黒手袋が光る手は大きく、それでいて細かった。
「ありがとうございます」
自分の煙草に火を付けると、青年は微かに口角を上げる。瞳を長い睫毛の影が
「どうしてここに? まだ
「えぇ、でも少し
「僕は、待機命令が出たので」
青年の口から
朱音は様々な疑問を口に出せずにいた。聞きたいことはたくさんあったものの、所詮は他人。一度きりの縁に、関係を繋げるような発言は不要だ。
「大丈夫ですよ、いずれまた逢います」
煙草を揉み消した青年は去り際、彼女の意を汲み取ったかのようにそう呟いた。
「え?」
「だからそんな顔しないで下さい」
にこりと微笑んだ青年は、すぅっと目を細める。闇夜に輝くその
「噓吐きは、いずれ殺されますから」
彼が耳元でそう
慌てて後ろを振り返る。しかし、そこには一枚の羽が舞っているだけで。青年の姿など見当たらない。
「……ゆ、め?」
『いやほんとなんです、本当の話なんですってば…!』
脳内を少女の声が駆け巡っていく。伝説が、噂が、確かな実感をもって、
「…………白い、孔雀」
吐き出した息が細い線を引いて月夜に消えていく。彼女の瞳に映るのは、最後に見た青年の、人を射るような冷たい眼差しであった。
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