アイの過剰摂取

 公売会は何事もなく、淡々と進んでいた。広いホールに響く声に耳を傾けながら、咲穂さほ瑞綺みずきをじっと見つめる。微かに見える彼の表情は陰鬱いんうつげで、あかりに濡れる白磁器はくじきのような肌だけがほんのりと温かい。青い空は流れていく品々を見ているような気も、それより先の景色を見ているような気もした。

 咲穂はその物憂ものうげな空気に呑まれ、一つ溜息を漏らす。吐き出された空気は光に満ちた世界をてもなく浮遊していく。落ち着くべき場所などない。この気持ちに折り合いを付けることは難しい。


 上司に怒られたのは、あまりにも久々であった。振り返ることもない記憶が諾々だくだくと脳裏をよぎっていく。嫌なものには蓋をする性分であった。そうやって乗り切ってきた。嫌なことはなかったことにしてしまえば良いのだ。


 手摺てすりに腕を置き、そっと頭を沈める。隣に上司はいなかった。きっと別の場所へ煙草でも吸いに行ったのだろう。彼女は一度感情の晴雨計バロメーターが振り切ってしまうと、なかなか平常に戻れない。そのきっかけを作るのはいつも自分自身であると、頭の中で誰かがぼやいていた。


 この世界が残酷なことを知ったのは、兄を失って孤児院に入れられた日。夕焼けに照らされ七色に輝く教会の中で、一人の修道女シスターがこう呟いた。


 この世界に神などいない───と。

 

 生き抜くためには強くならなければならない、と。


 それは紛れもなく、神が残した最後の宣告、そして遺言であった。


 心のどこかで気付いていた。自分はあまりにも幸せに生き過ぎてしまった、ということに。兄が見せてくれた世界は、あまりにも居心地が良かった。ずっとあの温かさの中に沈んでいられると、そう安直に考えていた。? 。本当は気付いていたはずだろう? 育った家にはいつも蜘蛛くもの巣が張り巡っていた。兄から貰ったふわふわのパンも、気を抜けば隣に暮らす少年の餌食えじきになっていた。いついかなるときも、誰かの悲鳴と怒号が飛び交っていた。。束の間の安寧を、永遠と、そう決めつけようとしていた。幸せは見つけるものではなく、与えられるものだと、どこまでも受け身にとらえていた。


 ゆらゆらと灯が揺れている。その景色があの日と重なっていく。


 夕日を背に河川敷を歩いたあの日。疲れておんぶを強請ねだった自分を優しく抱き上げてくれた手を、今でもおぼえている。兄とも父とも形容できるほど大きく温かな背に身を預け、ゆめうつつの狭間で微睡まどろんでいた私に、彼はどんな言葉を紡いだだろう。今思い返せば不思議な人であった。彼は妹の好きな色も、嫌いな味も、ちょっとした仕草も、なかなかやめられない癖も、全てを知り尽くしていた。しかし自分については、結局本当の家族なのかすら怪しいまま、何も語らずにいなくなってしまった。思い出すのは少女の頭を撫で微笑む彼と、沈みゆく太陽を眺め哀しげに目を伏せる彼。また一つ息を吐く。空気が微かににじみ、思い出が溶け出していく。


「逢いたいよ、お兄ちゃん」


 静かに呟いてみる。滲んだ景色はセピア色に染まっていた。



 カチリと音が鳴れば、薄暗い廊下に炎が揺らぐ。朱音あかねはライターを口元に近づけると、煙草に火を付けた。グロスを重ねた唇が艶めき、その隙間から息が漏れる。濃い影が、その彫り深い横顔に差し込んでいく。


 しくった。彼女の顔を見たとき、最初にそう思った。瞳は恐怖一色に染まっていて、触れた喉はピクリとも動かなかった。


『良い? 人造人間キマイラに人の心はないの。

 誰かを慈しむことも、死を嘆くことも、憧れを抱くこともない』


 ついさっき自分が放った言葉を反芻はんすうし、呆れたように笑みを溢す。それはそっくりそのまま自分に返って来ていた。心底くだらない話だ。そう彼女を責めて苦しいのは、


「すみません、火、頂いていいですか」


 ふと、そんな声がした。驚いて顔を上げると、窓辺まどべりに一人の青年が立っている。気付かなかった。そこに人がいたことも、


「ライター、切れてしまって」


 そう呟いてライターをカチカチと鳴らす青年は、この夜、この月夜を身にまとっているように見えた。褐色の肌に白銀の髪。長い前髪の隙間から覗く琥珀色の瞳。


「あ、えぇ」


 朱音はしばらくの間呆然と立ちすくんでいたが、そっとライターを手渡す。黒手袋が光る手は大きく、それでいて細かった。


「ありがとうございます」


 自分の煙草に火を付けると、青年は微かに口角を上げる。瞳を長い睫毛の影がいろどる。


「どうしてここに? まだ計画プランは実行途中でしょう?」

「えぇ、でも少し草臥くたびれてしまって……貴方は?」


 青年の口から紫煙しえんが吐き出される。煙がきよい空を伝っていく。


 朱音は様々な疑問を口に出せずにいた。聞きたいことはたくさんあったものの、所詮は他人。一度きりの縁に、関係を繋げるような発言は不要だ。


「大丈夫ですよ、いずれまた逢います」


 煙草を揉み消した青年は去り際、彼女の意を汲み取ったかのようにそう呟いた。


「え?」

「だからそんな顔しないで下さい」


 にこりと微笑んだ青年は、すぅっと目を細める。闇夜に輝くその双眸そうぼうは、どこか狼を思わせた。



 彼が耳元でそうささやく。その瞬間に身の毛がよだつ感覚が走った。自分の全てを握られているような、そんな気がした。


 慌てて後ろを振り返る。しかし、そこには一枚の羽が舞っているだけで。青年の姿など見当たらない。


「……ゆ、め?」


 かすれた声でそう呟いて、床に舞い降りた羽をそっと拾い上げる。鮮やかな深碧しんぺきを湛えたその羽は、幻想的な色を放っていた。


『いやほんとなんです、本当の話なんですってば…!』


 脳内を少女の声が駆け巡っていく。伝説が、噂が、確かな実感をもって、現世うつしよに現れる。


「…………


 吐き出した息が細い線を引いて月夜に消えていく。彼女の瞳に映るのは、最後に見た青年の、人を射るような冷たい眼差しであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る