変わる真実、変えられない事実

夕雨ゆう………!!」


 のどの奥から声を出す。名を呼ばれ青年は微かに表を上げた。翠色の瞳の奥に、困惑した自分の顔が映っている。柔らかく細められた、哀しげな笑み。それは自分の不甲斐ふがいなさを悔やんでいるようにも、懸命に声を掛ける青年をあわれんでいるようにも見えた。蒼牙そうがはその笑顔にてられ、遣る瀬無く首を振る。やめて欲しかった。その笑顔は最期の日葉月はづきと、よく似ている。


「……ごめん、立ち眩みが………」

「夕雨」


 まるで当たり前のことのように流そうとする彼の言葉をさえぎった。困った笑顔が目に痛い。違うだろう。そう思った。違う。欲しいのは謝意じゃない。助けを求める声だ。「」。「」。たった一言そうささいてくれたら、少しでも良い方向に進むことが出来た。しかし彼は、その言葉を決して口にしない。


「……そんな顔しないで。君も知ってることでしょう?」


 まじまじと蒼牙の顔を眺め、青年はまた笑う。

 出逢ったときから夕雨は、身体の中に爆弾を抱えていた。それは身体をむしばむ毒。彼は今こうして息をしている間もずっと、死と隣り合わせで生きている。心臓は死を計算カウントする時計。その音を聞く度に、彼は段々と死に近づいていく。夕雨は知っているだろうか。あと何回でその息の根が止まるのか。あと何日でその灯火ともしびついえるのか───


「今でもときどき、怖いと思うことがあるよ」


 夕雨はさとすようにそう呟いた。


「この手記にはね、全てが載っている。

 葉月さんがこの手記に書いたことは、予測された事実。

 そしてそれを僕に渡したのはきっと、その未来を変えて欲しいと望んだから。

 でも事実はときに希望や夢を破壊してしまう。

 君には分かるはず、このどうしようもなく埋められない隙間を…」


 静かに見つめられ、蒼牙はうつむく。


 。それはというという。そしてそう遠くない未来、という───


 下を向いて唇を噛む蒼牙の頬を、夕雨の白い手がすくう。小さくて白い手のひら。しかし心をすっぽりと包み込んでしまうような温かさがあった。


「蒼牙、『事実は変わらない。でも、真実は変えられる』。

 そういう言葉を聞いたことがある?

 僕は死ぬよ、それは事実だ。

 でも、この短い人生に意味などないという真実を押し付けられたくはない。

 死ぬのは怖いよ……それは当たり前の感情でしょう?

 でも僕は、後悔の残る人生を送る方が、何倍も、何十倍も、怖い」


 強い光。その明るさに目を背けて、開きかけていた口を閉ざす。


「蒼牙、君には後悔のない人生を歩んでほしい。

 そしてその舞台に、

 

 

 この世界で守れるものは少ない。

 だから君は、僕を切り捨てなくちゃいけない。そうでしょう?」


 優しい声に首を振った。聞きたかった。自分が今目の前の友人を捨てたら、、ということを。独りになって生きる人生の哀しみを、孤独を知った今なら分かる。『』という存在アイデンティティ土砂どしゃ埋没まいぼつしていく。その朽ち果て呑まれていく一瞬一瞬を、君は何を思い生きるのだ。


「君は優しいね」


 そっと手が伸びて、優しく涙をぬぐわれる。


「大丈夫、泣かないで…?」

「泣いてない」


 欲張りなど何もしていないはずだ。───


 彼は決して笑みを絶やさなかった。視界の端でみどりが揺れる。きっとそれは、最期の瞬間まで変わらないのだろう。何となくそう思った。


『事実は変わらない。でも、真実は変えられる』


 その言葉に問いたい。


 

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