闇の鳥籠

 踊る二つの黒い影はいつの間にかその闇夜にとろけ、やがて見えなくなっていた。

 咲穂さほは走ってきた道でふと立ち止まり、後ろを振り返る。後方に続く廊下は長く、大窓から差し込んだ月華が壁に掛かっている絵画を仄暗く映していた。ここは知らない場所。黒い影に笑われ、気が付けば見知らぬ世界へと踏み込んでしまっていた。絵画には淡い笑みの聖母。その少し俯いた白い顔に差し込む影。光を失った平坦へいたんな瞳。心の隙間を風が通り抜ける。意味もなくぞっとした。誰もいない凍える廊下で、絵画の女はとっぷりと闇に浸かっているような気がする。その黒が迫ってくるような感覚に震えた。ひとりぼっちだ。───


 人とは必要以上に関わらない。言及しない。同情しない。ここでは弱みを持つことが、命取りに直結する。人に自分の弱みを見せること──すなわち弱みとなるようなものを作ってしまうこと。それは自らの身を滅ぼす行為。弱みにつけ込まれれば最後、ありとあらゆるもの吸い取られ、この街の藻屑の一部と化す。


 つい先日思った言葉が脳裏をかすめる。ずっとこの身に付き纏うであるはずだった。忘れることなどない。夜の濃い闇が、烏の羽の黒が、心底恐ろしいことは、誰でもない自分が一番理解しているはずであった。


 そう躊躇する脳の狭間で音がする。コツコツと規則正しく刻まれるヒールの音は、少女の後ろで止まった。


「それ以上先に行かれるのですか?」


 息を呑んで後方に跳ぶ。微かに巻き起こった風が、声の主の髪を揺らした。月夜に輝く漆黒の髪は長く、夜空に浮かぶ瞳は美しい瑠璃色。咲穂はその顔に見覚えがあった。


「……あなたは」


 咲穂はそう呟いて、腰からナイフを抜く。


「距離を空けておいてナイフですか。

 こちらは拳銃を持っているというのに、随分と舐められたものですね」


 切長い瞳が鋭く細められる。黒いスーツからのぞく白い手。その手に引かれる少年がいた。咲穂は一つ息を呑むと、震える手を握り込む。


 何故少年ニアがここに……いやそんなことは関係ないか。


「もう一度。それ以上先に行かれるのですか?」


 静かな問いかけが夜の闇に消える。


「何故、そんなことを、聞く?」


 深い影を落とす青い色。咲穂はその思考回路を読むことが出来ない。


「忠告しているだけですよ。

 ここから先はです」


 女はそう言って、にこりと微笑んだ。その腕に何かが絡まっているような錯覚に襲われ目を凝らす。蜘蛛の糸のように見えたそれは、ステンドグラスから漏れ出す光の線で。しかし何処か拭えない戦慄せんりつを帯びていた。そっと自分の手を見つめ、上へと視線を動かす。そこには見えないほど細く紡がれた糸が、今にも少女を取り込もうと口を開いていた。


「行かない方が良い。

 貴方の好奇心は私が受け取りましょう」


 拳銃を下ろし、女がそう呟く。


「その代わりに、彼をお願いできますか?

 この道を真っ直ぐ歩けば、外に出られるので」


 彼女はそう告げて少年に目配せした。彼はおどおどと辺りを見渡し、少女と視線を絡める。海色の瞳に揺れるのは不安と困惑。しかしそれは咲穂も同じであった。


「……私を怪しいとは思わないのですか」


 少女に背を向け歩き出す女に、ぽつりと呟く。


「えぇ、思いませんね」

「何故?」

「それは、なかなか難しい質問です」


 女が振り返った。夜風に長い黒髪がなびいて揺れる。


「しかしここでは、こう答えておきましょうか」


 刹那、彼女の表情が和らいだ───ような気がした。


「貴方が『白い孔雀White peacock』を信じているからです」


 鈴の音が響く。口を開きかけた少女に、女は首を振った。


「彼を連れて逃げなさい。

 ……話の続きはまた、逢った時に」


 そうとだけ告げて闇に溶けていく。その後ろ姿を、少女は静かに見つめていた。その姿が一瞬、彼の姿に重なったような気がしたのは、少女の見間違いだったか。


 それにしてはあまりにも、月が眩い夜であった。



 月明かりも届かない部屋に一人。唄を口遊む者がいた。


𓈒 𓏸 𓐍  𓂃 𓈒𓏸 𓂃◌𓈒𓐍 𓈒


 かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ


𓈒 𓏸 𓐍  𓂃 𓈒𓏸 𓂃◌𓈒𓐍 𓈒


「あーあ、逃げられちゃったか」


 ぼそりと呟いて、面白くなさそうに笑う。


「じゃあね、後ろの正面は───」


 鈴の音がする。重なりあった音の中で、赤が揺れている。


!」


 再び開かれた笑みは、

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