静かなる激情

⚠︎本編は過激な描写が多く含まれます。苦手な方は自衛のほどよろしくお願い致します。

 

 男は闇夜を駆け抜けながら動揺どうようしていた。言葉など発していないのに、全身に走る戦慄せんりつが、彼奴あいつに居場所を告げているような気がする。抑えようのない恐怖はぶくぶくと心の裏から溢れ出る。それは人間の根源に存在する恐怖───

 途中であの少年は切り捨ててしまった。しかしまあ良い。自分に課せられた使命は少年を連れて帰ることでも、この世界を変えることでもない。


「かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ」


 ふと声がする。男はその声を聞いて息を呑んだ。全身を何かが走り抜けていく。何故、声がする? 彼奴は自分の後ろを走っていたのではないのか──?


「いらっしゃい」


 男が迷い込んだ小さな部屋。そこは殺意と怨念が蔓延はびこる小さな鳥籠。その真ん中で、彼奴が笑っていた。

 男は驚いて数歩後ずさる。入ってきた扉に駆け寄り焦ったようにノブを回す。


「あかんで〜そんなことしてももう出られへん」


 彼奴はそう呟いて、手に持っていたものを机に置く。黒く丸い塊がごろりと机を這い床に落ちた。ぐちゃりと何かが潰れる音がして、瞳を失った人の顔が真っ直ぐに男をとらえる。


「はぁ…。ほんま、いつもつれない男やな」


 『再会』という言葉に少し違和感を覚えた。この二人はどこかで一回あったことがあるというのか。ならば何故、あの人は自分を呼んだのか。遠い昔、自分の知らない場所で何かあったのか。

 視界の端で琥珀の瞳が妖しく揺れる。あの人と同じ色のはずなのに、その印象は全くと言って良いほど違っていた。あの人の瞳を気高くも冷淡な瞳と例えるならば、彼奴は狂気に満ちた殺戮の瞳。


「少しは愛想っちゅーもんを覚えておいた方がええで?」


 席を立つと彼奴はにっこりと微笑む。赤く濡れた白いシャツは透き通り、細い腰元のラインまではっきりと見えていた。


「…それとも今、おねーちゃんが教えたろか」


 そっと肩を掴まれ確かに感じる人の重み。恐怖に縛られ蹲踞じゅんきょする自分の上に馬乗りに被さった彼奴の細い指が、顎のラインをなぞっていく。ぞくぞくと感じるこの感覚は、恐怖と快楽の混じった混沌。男にしてはやけに軽く細い肢体と、女にしてはやけに低く脳天を突くような声が全身に満ち満ちていく。そっと頭を抱き込まれ視界に狂気の輝きが注がれる。微かに汗ばんだ皮膚と鉄の薫香くんこうを漂わせる派手色の髪しか目に入らないほどに、気が付けば何も感じられなくなっていた。流れる雫は血をはらみ、二人の隙間を埋めていく。混沌とした感覚に震える自分を見下ろし、彼奴は瞳を細めた。


「…やっぱり、あんた、れいやないな」


 静かに囁かれ、ベールを剥ぎ取られる。


「覚えておいた方がええで。麗はな……


 見上げてくる魔性の瞳。汗とも血とも蜜とも形容できる雫が顔を滴っていく。そっとその雫を舐めとると、彼奴は楽しそうに笑い声を堪えた。体が動かせない。やけに紅い唇が揺れている。若しかしてと考え澱む時間もなく、彼奴はを取り出した。


 コードを引けばやたら甲高い音が遠くに聞こえる。


「まだ死んだらあかんで?

 最期まで楽しいこと、い〜っぱいしよな♡」


 回転するのこが愛に堕ち毒に痺れた唇を切り落とす。激痛に悲鳴をあげる。彼奴の髪が、皮膚が、どんどん紅く染まっていく。


「あ〜あ、こんなに染められてもうた。

 ……これじゃあ麗に嫉妬されてまうなぁ」


 血の香りが濃い。その中で彼奴だけが笑っていた。目を抉り取られ、四肢を切断される。段々と視界は真っ赤に染まって、


 やがて黒一色に塗り上げられた。



「飽きた」


 部屋に響いていた狂気の笑い声は、唐突に途絶えた。瑚都ことは手に持っていたチェンソーを投げ捨てる。重機が床に落ち金属がこすれる重い音が響いた。床は真っ赤に染まり、中央には人の形を失った肉片が散らばっている。


「はぁ……またハズレか」


そう吐き捨てると彼は椅子に深く身を沈めた。どれだけ拭おうとも決して落ちぬ血汐を諦め、苛々と爪を噛む。ガリガリと削れば爪が剥がれ痛みが全身を走る。しかし彼にその痛みは届かない。その思考は遠い昔を揺蕩っていた。


「かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ」


「瑚都」


 間髪いれず名前を呟き、振り返る琥珀の瞳をにらみつける。


「あ〜もう! あんたが真ん中いるとつまらん!

 一回くらい盛大に間違えればええのに!!」


 そう騒ぎ立てると、其奴そいつはくすりと笑った。


「だって分かりやすいから」

「は…」

「あんたの気配、すごく分かりやすい」


 言葉がうまく出てこない。それは悔しさゆえだと信じたいが、ただ彼の笑みに魅入られていただけかもしれなかった。余裕そうな大人っぽい微笑が、いつまでも脳裏に張り付いて離れない。それは今この時も───


「かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ」


 そううたい、指を口から離す。誰かの血汐に、別の血液が混じる。


「また、わいの負けか」


 自分は当てられなかった。でも彼奴は、確かに正解を当てた。


「相変わらず冷酷な奴やな」


 騙されているという意味で、先程の奴は同胞と呼べた。今更そのことに気付いて息を吐き出す。胸ポケットから煙草を取り出すと口に含んだ。


「……先生Sir、呼んだ?」


 扉が開き一人の少女が姿を現す。この場に似合わぬ純白の長い髪が、蝋燭ろうそくの光を浴びて艶やかに濡れる。


夢生むう


 名前を呼ばれ、少女は嬉しそうに視線を和らげた。


「一つ、お願いしてええか」

「…うん………私、先生Sirのためなら……何でもする……よ…?」


 手招きする瑚都に引き寄せられ、白い肌が紅く光る。


「ええ子やな」


 煙草から口を離せば、二つの影が重なる。


「殺してほしい奴がおんねん」

「…うん……」

「……先生Sirと同じ色……?」

「ああ、夢生はやってくれるやろ?」


 少女は蕩けた瞳で彼を見上げる。


「……もちろん………先生に言われたことは……何でもやる……

 ………だって…………先生は………


 その答えに瑚都は満足そうに微笑む。そんな二人の頭上で、風に吹かれる者がいた。長い銀色の髪が暗闇に輝く。瑚都がふと空を仰ぐが、そこにはもう誰もいない。ただ一回、静かに鳴り響く鈴の音。瑚都はその音を聞くとまた、オモシロソウに笑った。


 鳥籠は今宵も口を開けて、迷い鳥を探している。 

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