花散る郷

 吹雪く雪山の一角を、黒い獣が走っていた。ふんから漏れる息は白く、瞬く間に細やかな結晶へと姿を変え空に散っていく。北側に位置するこの土地で山肌が見えることはまれであった。春を迎えても植物が芽吹くことはなく、ただじっと薫風くんぷうを待ちびる。獣は一気に切り立った崖を駆け上ると、山の奥地へと足を進めた。彼の背後に連なる道は一本の軌跡きせきを描き、わずかなまどいをも感じさせない。黒く光る毛並みの中、一際輝く碧眼へきがんが揺れていた。

 しばらく走ると、目の前に微かな違和感を感じる瞬間が訪れる。それはながく歩を進めれば進めるほど、しっかりとした実感を持って胸に迫った。いくら歩いても、進んでいないような感覚。それは思い込みでも勘違いでもない。ある境界線を越えようとすると、永遠に進めなくなってしまう。それは、


アサヒ


 そう名前を呼ぶ。すると目の前で何かが弾けた。いつの間にか人に化けた獣は、ゆっくりとその先の世界へと足を踏み入れる。雪を踏み締める軽い音が響いた後、波紋を描くように雪が溶けていった。否、もともとこの山に雪など降っていない。これらは全て、神が作り出した幻影だ。境界線を越えることが出来ればそこに、息を呑むほど美しい無何有むかうさとが現れる。春の息吹を感じさせる郷は淡いももと爽やかなあおに恵まれ、儚い桜の香が風に薫った。この山の桜は永い。花雨かうを浴びながら、青年は息を漏らす。空を見上げれば満月が、静かにこちらを見下ろしていた。


「……蒼牙そうが


 静かな夜に一人身を沈めていると、そう名前を呼ばれる。ゆっくりと振り返ればそこに、一人の青年と獣が立っていた。翠玉すいぎょくの彼よりも大きな獣は白狼はくろう


夕雨ゆう

「やっぱり、来ると思った」


 雪に桜が散るような、温かく淡い笑み。静かな声色は穏やかで、心をするりと撫でていくような柔らかさがある。春風に吹かれ首元に光るチョーカーが揺れた。月を象ったそれは蒼牙のピアス、そしてアサヒの額に刻まれたものと同じ。

 蒼牙は彼と話すのが好きだった。白狼は微かに首を振ると欠伸あくびを噛み殺す。その黒い鼻面に桜の欠片かけらが舞い降りる。それはどこまでもゆったりとしていて、優しい時間であった。蒼牙は呑気のんきあやかしを眺め、遙遙はろはろに思ゆる記憶を思い返す。あの人の側に支えていた狼は、蒼牙に決して気を許そうとはしなかった。自分が彼と同じ獣であり、また同じように愛されているという事実が気に食わなかったのだろう。幼い頃はただ恐ろしく感じていた奇霊くしびも、今思えば可愛いものであった。今はもう合間みゆることも出来ぬ。その獣もまた、消えてしまったのだ。


「これも全部読み通りってこと?」


 そう尋ねると、夕雨は手に持っていた手記をかざす。それは彼がこの世にのこし、夕雨に託したものであった。


「今日、君がある記憶装置を持ってくることが書かれてる」


 相変わらず全てはお見通しという訳だ。蒼牙は上着のポケットからそれを取り出すと宙に放る。夕雨はそれをキャッチすると満足そうに笑んだ。


「彼女とは、葉月はづきさんの話、したの?」

「してないよ、話すようなことじゃないだろ」


 夕雨は笑みを崩さない。きっと蒼牙には伝えない、されどより刻銘な記録がその手記には遺っているのだろう。今の夕雨には蒼牙が、一層愛おしく映っているようであった。


「自分でも驚くほど、正確に全てがつづられている。

 本当に恐ろしい手記だよこれは」


 葉月が遺したその手記は月光の下、闇夜を吸い込み黒々と光っている。それは美しさと妖しさの融合。まさにパンドラの箱と形容すべき、漠然とした恐ろしさがあった。葉月は未来読みでも何でもない。ただその類稀たぐいまれな頭脳を駆使し、。つまり全ては最初から、彼の手中に収まっていた御伽噺おとぎばなしの一部なのだ。死んでも尚、ここは彼の舞台。この時代に生き、笑い、泣く者は皆、彼の傀儡人形かいらいにんぎょうに過ぎなかった。


「今のところ、外れはないよ」

「そしてもう数えるほどで」

「「」」


 二人の声が重なる。夕雨は続けた。


「葉月さんは確かに優しかった。

 だけど自分の生、周りの生、ありとあらゆる生ける物に関心がなかった。

 これはどこまでも理性的な観測。確率的な未来。

 人間の心の一切を除去した、無機質な歴史。

 でも今世界は、この生命の鼓動を感じない時代を真っ直ぐに突き進んでいる」


 夕雨が蒼牙を見やる。真っ直ぐな翡翠の瞳から、強い光が放たれていた。


「もう僕たちは、後戻りできない地点を超えてしまっているんだ」


 この街に暮らす人々は段々と、ヒトノココロを忘れている。蒼牙はそっと、自分の胸元に触れた。その鼓動に耳を澄ます。どこまでも規則正しい音は安堵を誘う一方、何処か得体の知れない感触を伴っていた。この世の法則に外れることのない律動リズム。生の全てをつかさどる心臓でさえ、どこまでも無機質な音を奏でている。自分はどうであろうか。その疑問が湧き上がれば最後、その人生はどこまでも無意味な物であるような気がした。


「……でもね、一人だけ彼の手記から外れた行動をしてる子がいる」


 夕雨の言葉に顔を上げる。


「……外れてる、というか。

 きっとその子はこの手記通りに動くはずだったんだと思う。

 


 葉月が考えた最大の可能性。そこに載らない第三者。この手記の中を自由に飛び回る、


白い孔雀White peacock

 彼だけは、


 白い孔雀White peacock白い孔雀White peacock

 そう、反芻はんすうする。

 彼は少女が探し求める憧れ。そして希望のぞみ


「……白い孔雀は、この未来を変えられるのか」

「分からないよ。でも今のところ世界は、彼の選択一つで大きく揺らぐ」


 夕雨の視線が厳しい。そうか、そんなに大きな存在なのか。彼は、白い孔雀White peacockは、葉月という魔物を凌駕りょうがする伝説たりえるのか。


「僕も詳しい情報はまだ集め途中なんだ。

 もし何か知っていることがあれば、また連絡してほしい」

「……わかった」


 少女のかおを思い出す。初めて逢ったとき、最も見せた表情は『』。どこか怯えた顔は、葉月が話した印象とはあまりにも駆け離れていた。白い孔雀White peacockはきっと、少女を変えてしまうだろう。それは良いようにも、悪いようにもなる。少女の心は今、あの伝承のとりことなっていた。それはある種の光、ある種の闇。呑み込まれれば最後、洗脳される可能性だってある。とても危険なものだ。そう思えるほどに、蒼牙はあまりも『白い孔雀』を知らなかった。白い孔雀White peacock。月夜に現れる伝説。それは輝く月か。


「……でも、僕は正直嬉しかった。

 葉月さんがこの手記を渡したということは、

 きっとこの未来が変わることを望んでいるということだから」


 表情を和らげ、夕雨は呟く。

 蒼牙の記憶に残る葉月は、どこまでも優しく穏やかな微笑をたたえていた。しかしその裏、彼は『魔物』と恐れられるほどに捻じ曲がった感性と価値観を持ち合わせていた。その落差は時に彼らを苦しめることもあった。しかしそれでも側に居ようと誓ったのは、彼自身がそんな自分を拒み変わろうと努力していたからだ。その人間らしい葛藤かっとうあえぎが、人間ではない彼らの心に命を宿した。


 思い出に感慨深く浸っていると、視界の端で何かが揺らぐ。目の前に立っていたはずの青年が、ゆっくりと地面に倒れ込む。残像のように脳内を掠めていく記憶に押され、その華奢きゃしゃな身体をつかんだ。絹糸のように細く薄い色の髪がぐ。その瞬間に感じる香り。彼が仄かに漂わせるその香りは、いつでも獣の嗅覚を刺激する、


 

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