花散る郷
吹雪く雪山の一角を、黒い獣が走っていた。
しばらく走ると、目の前に微かな違和感を感じる瞬間が訪れる。それは
「
そう名前を呼ぶ。すると目の前で何かが弾けた。いつの間にか人に化けた獣は、ゆっくりとその先の世界へと足を踏み入れる。雪を踏み締める軽い音が響いた後、波紋を描くように雪が溶けていった。否、もともとこの山に雪など降っていない。これらは全て、神が作り出した幻影だ。境界線を越えることが出来ればそこに、息を呑むほど美しい
「……
静かな夜に一人身を沈めていると、そう名前を呼ばれる。ゆっくりと振り返ればそこに、一人の青年と獣が立っていた。
「
「やっぱり、来ると思った」
雪に桜が散るような、温かく淡い笑み。静かな声色は穏やかで、心をするりと撫でていくような柔らかさがある。春風に吹かれ首元に光るチョーカーが揺れた。月を象ったそれは蒼牙のピアス、そして
蒼牙は彼と話すのが好きだった。白狼は微かに首を振ると
「これも全部読み通りってこと?」
そう尋ねると、夕雨は手に持っていた手記を
「今日、君がある記憶装置を持ってくることが書かれてる」
相変わらず全てはお見通しという訳だ。蒼牙は上着のポケットからそれを取り出すと宙に放る。夕雨はそれをキャッチすると満足そうに笑んだ。
「彼女とは、
「してないよ、話すようなことじゃないだろ」
夕雨は笑みを崩さない。きっと蒼牙には伝えない、されどより刻銘な記録がその手記には遺っているのだろう。今の夕雨には蒼牙が、一層愛おしく映っているようであった。
「自分でも驚くほど、正確に全てが
本当に恐ろしい手記だよこれは」
葉月が遺したその手記は月光の下、闇夜を吸い込み黒々と光っている。それは美しさと妖しさの融合。まさにパンドラの箱と形容すべき、漠然とした恐ろしさがあった。葉月は未来読みでも何でもない。ただその
「今のところ、外れはないよ」
「そしてもう数えるほどで」
「「この世界に終末がやってくる」」
二人の声が重なる。夕雨は続けた。
「葉月さんは確かに優しかった。
だけど自分の生、周りの生、ありとあらゆる生ける物に関心がなかった。
これはどこまでも理性的な観測。確率的な未来。
人間の心の一切を除去した、無機質な歴史。
でも今世界は、この生命の鼓動を感じない時代を真っ直ぐに突き進んでいる」
夕雨が蒼牙を見やる。真っ直ぐな翡翠の瞳から、強い光が放たれていた。
「もう僕たちは、後戻りできない地点を超えてしまっているんだ」
この街に暮らす人々は段々と、ヒトノココロを忘れている。蒼牙はそっと、自分の胸元に触れた。その鼓動に耳を澄ます。どこまでも規則正しい音は安堵を誘う一方、何処か得体の知れない感触を伴っていた。この世の法則に外れることのない
「……でもね、一人だけ彼の手記から外れた行動をしてる子がいる」
夕雨の言葉に顔を上げる。
「……外れてる、というか。
きっとその子はこの手記通りに動くはずだったんだと思う。
でも葉月さんの予測に乗らなかった第三者が現れたんだ」
葉月が考えた最大の可能性。そこに載らない第三者。この手記の中を自由に飛び回る、生きている者。
「
彼だけは、葉月さんが見抜けなかった最高の刺客」
そう、
彼は少女が探し求める憧れ。そして
「……白い孔雀は、この未来を変えられるのか」
「分からないよ。でも今のところ世界は、彼の選択一つで大きく揺らぐ」
夕雨の視線が厳しい。そうか、そんなに大きな存在なのか。彼は、
「僕も詳しい情報はまだ集め途中なんだ。
もし何か知っていることがあれば、また連絡してほしい」
「……わかった」
少女の
「……でも、僕は正直嬉しかった。
葉月さんがこの手記を渡したということは、
きっとこの未来が変わることを望んでいるということだから」
表情を和らげ、夕雨は呟く。
蒼牙の記憶に残る葉月は、どこまでも優しく穏やかな微笑を
思い出に感慨深く浸っていると、視界の端で何かが揺らぐ。目の前に立っていたはずの青年が、ゆっくりと地面に倒れ込む。残像のように脳内を掠めていく記憶に押され、その
血の芳香であった。
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