持ちよる孤独は灯火のように。

 その日の夜も、私はを探していた。彼について何か知っていることはあるのかと問われても、何も知らないと答えるより他ない。知っていることと言えば、彼がこのにおいて唯一の切り札であること。そして私たちに残された最期の希望ひかりである、ということだけであった。何故。何故もっと多くのことを聞こうとしなかったのだろうか。何故大切な仲間と共に、まばゆい空の下を歩くことが出来るなどと、安易に考えていたのだろうか。それは私の最初の我儘わがままであり、最後の過信かしんであった。あの愛おしい時間をどこまでも久遠くおんなものにしたかった。自分の捨ててきた夢や希望、幸せ。その全てをこの瞬間に与えられたのだと、そう言い聞かせてきた。人間が幸である時間は短い。それは宇宙をいろどる星の一部が燃え落ちるようにゆっくりと、それでいて刹那に、自分の目の前を流れていく。少しずつ、自分が分け与えられた幸せがついえていく。その感覚がずっと心のどこかを支配していた。酷い焦燥感しょうそうかんに駆られていた。だからこそ信じたかった。大切なものを守りたかった。否、それ以上に。私は幸せを手放したくなかったのかもしれない。

 辺りを彷徨さまよい歩いていた私は、ふと空を見上げた。憎いほど清く、美しい朧月ろうげつが、雲間からこちらを見つめている。空はどこまでも澄んでいて、宝石箱のように煌々と輝いていた。その箱に眠る星は数多。しかしその空を見上げる私は一人。そのわびしさとやるせなさが、胸の内を埋めていった。


「今から百年も千年前も前に、月に埋葬された人がいるんだって」


 私がそのぽっかりと抜け落ちた奇跡に想いをせていると、背後からそう声を掛けられる。


「宇宙飛行士だった彼はずっと月に行くことが夢だったらしいんだけど、

 夢半ばで病に伏して、結局行けなかったらしいよ」


 低く、しかしどこか温かい声であった。私の隣に肩を並べた青年は、月を仰いで手を振る。まるで挨拶をするかのように。彼女がまとっていたはずの雲はちぢれ、優しい光が降り注いでいた。


「だから彼の死後、月に遺灰を運んで埋葬した」


 青年が私の方を振り返る。月と同じ色の瞳が揺れていた。


「なんかロマンティックじゃない?

 死んだら何も残らないのにね。何でそんな意味のないことをしたんだろう」


 最後の一言は、どこか遠くに投げかけられた疑問。それを今、月で暮らす宇宙飛行士は聞いているだろうか。そう思えば自然と、言葉はにじみ出ていた。


「……確かに死んだ人にとっては何も残らないかもしれない。

 でも、残された人はきっと思い出す。

 彼がそこに眠っている事実を……今の貴方と、私みたいに。

 それってとっても意味のあることだわ」


 再び視線が交わる。青年の瞳が嬉しそうに細められた。


「君、とっても素敵だね。

 ……

「…え?」


 優しく手を取られる。その指先に唇が触れる感覚。


「君に一つ、頼みごとがあるんだ。言ってもいいかな」


 それはとても不思議な時間だった。しかし心は夜の海のように穏やかで、この現実を受け入れている。


「……なにかしら」


 戸惑い気味に問い返すと、青年の口元からふんわりと微笑が溢れた。彼の息遣い一つ一つ、動作一つ一つに意識を取られ、どこか遠い世界へと誘われる。


「君の大切なものと僕の大切なもの、交換して欲しいんだ」


 そっと囁かれた言葉は、私の心を少しばかり恐怖の波へと手招いた。彼が、私に近づいているという事実が恐ろしい。しかし心のどこかでは、それに勝る安堵が生まれていた。という気持ちが溢れ出す。


 そっとポッケから、小さな記録装置を取り出した。最後の最後、様々な人の温もりを感じたは、私の手に回ってきた。そう、生き残ってしまった私のもとに。政府アルカディアの機密情報を盗もうと言い出したのは、レンだったかヒロトだったか。『最後だから』。その言葉だけで、私たちはどこまでも幼くなれた。幼さをいつわれなかったのは私だけだった。私だけはいつまでも、幼さの檻に閉じ込められていた。あの世界の中、私だけが本物であった。その汚れひとつない想い、恐怖ひとつない自信が、私を救った。本当誰もが思っていたのだろう。、ということを。どこまでも無知であったのは、私だけだ。


「……いいわよ」


 言葉はするりと口から漏れた。それは恐怖に支配されたものでも、夢に溺れたものでもなく、


「……本当?」


 青年は私の問いかけに、また少し笑う。幼さの残る笑みに、思わず息を溢した。


「じゃあ僕は、君にこれを預けるよ」


 彼はポッケを探るとそれを取り出す。私が持っているものとそっくりのそれは、青年の白い掌の上で光っていた。月華に濡れたアスファルトの上で、私たちはそれぞれを交換しあう。しげしげと手渡されたものを眺める私を見て、青年はまた口を開いた。


「リタ、君にはいつか、今日よりもずっと苦しくて悲しい日がやってくる。

 そのとき碧眼の青年に出逢うと思うんだ。

 もし君が彼を信用しよう、そう感じたら、これを渡してやって欲しい」


 何故彼が自分の名前を知っているのか。未来を予測しているのか。疑問は多く浮かぶ。しかしこのフシギな世界で、それはどこまでも現実たりえた。


「……ねぇ、貴方の大切なもの。この中身を教えてはくれないかしら」


 そう尋ねると、彼は気恥ずかしそうに微笑む。


「妹がいるんだ。

 これはその子への、ちょっとしたプレゼント」

「まあ素敵。でも私なんかが持ってて良いの?」

「良いよ、君が良いんだ。

 ……

「信用してるのね」

「あぁとっても。あの子は僕よりも、何倍も強い子だよ」


 微笑み合う。それは私のもとに訪れた、小さな幸せ。


「もし良ければ約束して欲しい。絶対、幸せになるってことを。

 大切なものを交換した者同士、それ以上に大切なものを見つけるってことを」


 そっと小指が差し出される。私は自然とその指に触れていた。


「えぇ、約束するわ」

「ありがとう」


 利益など何もないはずなのに、青年はそう呟く。


「…もう、行かなくちゃ」


 ただ静かにそう言って、私を見た。


「月を見たらさ、ときどき思い出して。

 


 どこまでもしみじみと、悲しげな残り香。その言葉を聞いたときにはもう、彼は跡形もなく消え去っていた。全て夢であったかもしれない。しかし自分の手には確かに、違う温もりを持ったものが握られていた。夢現ゆめうつつなどどうでも良い。今はただこの満たされた想いを抱いて、家に帰るだけだ。


「……妹、か」


 ふと思い立って、そう呟く。それと同時に笑みが溢れた。


「どんな子かしら。彼の妹って」


 月明かりが帰路を照らす。その果てしない道の先で、まだ見ぬ少女が笑っていた。

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