暗闇を照らす光、その先の未来へ
競売の
瑞綺は幼い頃から、雨の日が嫌いだった。雨の日は、いつもあの日を思い出させる。二度と戻らなかった優しい人と、歪んでしまった青い瞳。切り離されてしまった世界と、一人取り残された自分───
感傷的な気分に駆られ、ふと視線を
嗚呼、なんと馬鹿馬鹿しい話だ! まるで手品のように、あの人は自分を導いていく。あるべき場所へ。来るべき時へ。それは何とも言えず可笑しな話ではないか? 自分は青年の手の上で、良いように転がされているのだ。しかしそれは人生で最も輝かしい時間で。生きていることを肯定される時間だ。自分は自分のために、この道を喜んで選んでいるのだ。自分もまた、彼を掌の上で転がし、遊んでいるのだ。
思いを心の内に吐露すれば、酔いが廻り火照った体が幾分か楽になる。彼がそんなことを思うはずがないとかぶりを振って、微かに溜息を漏らした。今日はどうも、良いように思考が働かない。
覚悟は決めていたはずなのに、時間が経てばまた臆病になってしまう。自分が世界を変えることに、
あの日世界の真実を知ってから、自分はこの世界を心底憎んだ。理想郷が語る真実は、夢は、希望は、全て薄っぺらい紙切れのようなものであった。真実はより重くあるべきであったし、夢はより広く、希望はより明るくあるべきであった。しかし自分は、その確かな感触の裏に潜む、数多の苦難や挫折、敗北の苦味を、当然の如く知ってしまっていた。安寧の地でぬくぬくと暮らしていた自分に、その痛みはなんとも理解しがたいものであった。自分はこの世界のことを嫌っておきながらも、未だその安楽に浸かっていたいと願っていた。そしてそれは今も、きっと。
もう一度頭上を仰ぐ。少女は自分の瞳を見て、再び頷いた。その懸命さに背中を押されるように、腕を動かす。微かに震える腕が、自分の臆病さと尊大さを物語っていた。捨てろ、瑞綺。この世界を捨てるのだ。犬のように地を舐めずりまわり、ハイエナのように屍肉を屠れ。快楽から手を離し、現実を見ろ。変えるのだ。裏切るのだ。この世界を。夢を。希望を。そして、自分を───
全ての意識が自分に向かうのを感じた。視界の隅で、男がうっすらと笑むのも見えた。瑞綺はその視線を振り払うかのように、手を伸ばす。その刹那。
───!!
叫び声がして、何かが弾け飛ぶ音がした。その瞬間、遠くで事の成り行きを見守っていたはずの青年が、視界に飛び込んで来る。胸の中に抱え込まれ、そのまま後方へと転がった。反転する視界の奥で、人々の叫び声が聞こえる。
「………し、ま……?」
「怪我はないか?」
抱き抱えられたまま、そう
「何か、あったのか?」
「ああ、動くな」
目の前が真っ暗であった。それは
「シャンデリアが落下して、照明が落ちた。
辺りに硝子の破片が散らばっている。危険だ」
黒い世界の中、縞の声と、規則正しい鼓動だけが響いている。暗く静かな空間が古傷を
こんなこと、彼はするだろうか。
大胆な彼のことだ、やると決めたら、きっとやる。
しかし、彼は、外の世界を知る術を持っていたか?
脆く、弱く、小さな部屋で幾つもの管に繋がれ、窓の隙間から見える月をぼんやりと見ていたであろう彼に、そんな機会など訪れただろうか?
もし、自分がこの世界を捨ててしまえば、私は、一体何者になるのだろうか?
縞は世界の枠組みから外れた私を、未だ『瑞綺』だと思ってくれるだろうか。
私を外へと誘おうと駆り立てるこの焦燥感は、『瑞綺』のものであろうか。
それとも、私────??
「瑞綺、大丈夫だから」
震える肩を抱き、縞が優しく声を掛けてくれる。
嗚呼、この胸の奥がゆっくりと広がっていくような、この感情は、何と言う?
「おい、いないぞ……!? あの少年がいない!!」
しんと静まった世界に、人の吐息が溢れていく。その刹那、誰かの声がした。その言葉を皮切りに、世界に言葉が戻っていく。地面に落ちた雫は一気に
乾いた音が、夜の街を揺らす。再び、どこかで硝子が砕ける音がした。暗かった瑞綺の視界に、淡い光が差し込む。月の光だ。淡く温かい、希望の光。
自分を導いてくれる光────
気が付けばそこに、いなかったはずの人物が立っていた。黒いベールで覆われたその素顔を知る由などなかったが、微かに覗く口元が微笑んでいるように見える。先ほどまで舞台にいた少年は、ぐったりとした様子で彼に抱えられていた。
辺りを舞う羽。羽を照らす月明かり。羽。羽。羽。
瑞綺は思わず、縞の腕の中で身動ぎする。彼を自分の目で確かめたかった。否。あの日と同じように、別の世界へと連れ去って欲しい。そんな思いが、漠然と胸の内を埋めていた。
「……白い、孔雀」
誰かの呟きが、確かに耳に届く。
舞い降りた月の精霊は今。静かに歯車を動かそうとしていた。
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