兄の使命と、妹の哀愁と

「じゃあ僕からもひとつ聞いていい?」


 咲穂さほが希望に湧いていると、瑞綺みずきがふと口を開く。


「あ、はい、何でしょう?」


 少女が慌てて瑞綺を見ると、青年はまた柔和な笑みを零した。


「前から気になってたんだけど、その刺青自分で入れたの?」


 何気ない一言。しかしその言葉を聞いた途端、少女の血相が変わる。


「見えてますか?」

「いや、ちゃんと見ないとわからないかな」


 彼女の不安そうな問いかけに、瑞綺は優しく首を振った。


「少し触って良い? 髪型を直すから」


 そう尋ねられ頷くと、そっと首元を撫でられ髪に触れられる。


 咲穂の項あたりで光る刺青いれずみ。月をかたどったそれは、繊細なラインを描き彼女の首筋を彩っていた。


「兄が小さい頃に入れてくれたんです」

「へぇ…それはまた大胆だ」


 咲穂が気恥ずかしそうに呟くと、瑞綺は微かに息を漏らす。細い指が髪の毛から離れた。


「もう見えてないですか?」

「うん。でも念のため、人には近づきすぎないようにね」


 瑞綺の声に、咲穂は安堵する。

 

 朱音あかねはアムネジアに潜入する前、特段この刺青を気にしていた。だからこそ肩の開いたドレスは着せてもらえなかったし、普段は結んである髪もハーフアップに落ち着いた。

 理由を尋ねると、内側には厳重な規則があり、女性が身体を傷つけることはあってはならない──とのこと。刺青もその対象となり、重い刑罰を負うことになっている、という。


「お兄さんのこと、大切に思ってるんだね」


 瑞綺が独り言のようにそう呟いた。


「はい、兄は──葉月はづきは、私にとって唯一の家族ですから。

 この刺青も、あまり家に帰ってこない兄が、

 いつでも一緒にいる証拠にって言って入れてくれたんです」


 その時の兄の表情は、今でも覚えている。咲穂は昔を懐古しながら、そっと自らの項を撫でた。この刺青は、大好きな兄が残した唯一の形見。どこに居ても咲穂と兄を繋いでくれる、大切なお守りだ。


「オークションの件は、咲穂の言われた通りに動くよ」


 瑞綺のその言葉を皮切りに、二人は別れた。咲穂は上司の役に立てたのだという確かな自信を連れて、朱音を探し始める。瑞綺はその姿をどこか冷めた瞳で見つめていた。



「私にとって唯一の家族ですから──ね。 

 は、


 瑞綺の後方にある柱の陰から姿を現した青年は、そう言って肩を竦めてみせる。瑞綺はその声に苦笑を漏らすと、指で挟んでいた通信機を握り潰した。


「とても微細なものだ、やっぱり一筋縄ではいかないか」


 瑞綺はそう言って、通信機の残骸を床に零す。そして床に散らばったそれを、さらに足で踏み潰した。


「で、あいつの思惑通り?」

「…ノエル、さっきから不機嫌だね」


 瑞綺は肩口から降ってくる声に呆れたように笑う。ノエルははたと口を閉ざし、瑞綺の前方に回り込むと、屈んで視線を合わせた。鼻がくっつきそうなほど近い。瑞綺はそのワイン色の瞳に溺れそうになり瞳を伏せる。


「なぜ瑞綺と名乗った? 偽名なら幾らでも取り繕える」


 囁き──しかし確かな憤りを感じる声。


「やっぱりそこか…」


 瑞綺は微かにそう呟くと、ノエルから視線を逸らした。


「…何となく、ね。気になったんだ」


──


 つい溢れ出しそうになった本音を、すんでのところで抑える。ノエルは瑞綺の曖昧な返事にしばらく押し黙っていたが、


「もう余計な真似はするな、瑞綺」


とだけ呟き、離れた。黒髪がさらさらと揺れる。


 。縞がくれた大切な名前だ。大切にしなければならない名前だ。しかし、だからと言ってという訳ではない。どれだけ外見が似ていても、中身は違う。瑞綺にはもう、本当の自分がどれかわからなかった。


瑞綺はノエルの動線を追いかけ、声を絞り出す。


「ねぇ、君さっき言ったよね。

 、って。」


 微かな声が宙に消えた。ノエルが振り向く。


「でもしま──


 それは瑞綺の必死な抵抗だった。ノエル──縞の足が止まる。振り返った瞳が揺れている。彼は瑞綺を見つめ、ふっと笑みを浮かべた。


「あぁ、そうだな」


 気の抜けた声。二人の作り笑いは泡沫となって消える。

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