第1章 Memories are like jewels

宵闇の麻薬

 冷たい雨が降っている。

 彼女はその中を懸命に走っていた。春を迎えたとはいえ、雨は未だ冷たく、彼女から温もりを奪っていく。その凜々とした冷たさが黙示したのは『無常』、ただそれだけであった。これは日常であり、非日常。理想であり現実。天国であって地獄なのだ。彼女の口から荒い息遣いが漏れるたび、髪から水が滴る。血だまりが驟雨しゅううと混じり、せ返るよう広がった強い香り。その中で轟く爆音と悲鳴。意識の奥で甲高い警報音が響いていた。 

 彼女は震えながら辺りを見渡し、細い路地裏を見つける。縋るような気持ちで、その道に転がる屑籠の影に身を潜めた。しゃがみ込んで自分の吐息を数える。一、二、三……いつまで続くだろう。どれだけ息をすれば、この天国地獄は終わりを迎えるのだろうか。滴る雫。不規則に響く鼓動。地面に広がる波紋。同じだ。いつの日かに見た景色と同じ。変わらない。閉じ込められているのだ。この檻に。この世界に。


「おいおい…ふざけんじゃねぇぞ?」


 二十四ほど数えた頃合いだっただろうか。その声は彼女のすぐ近くで響いた。彼女が走ってきた大通りに、一人の青年が立っている。路地の細い隙間から見える青年の髪は、人工的なピンク色だった。彼女の身体が強ばる。


「せっかくここまで来てやったっていうのによぉ?」


 青年の指先からは、鉄で出来た鋭利な爪が伸びていた。それは鈍い色を放ち、不気味に輝く。彼女は目を伏せて、身体を縮め込ませた。見つかったら終わりだ。青年が路地裏の前を通り過ぎていく。コツコツと足音は一定のリズムを刻み、止まった。


「……つまんねぇ」

「──!?」


 舌を鳴らす音が彼女の耳に刺さる。心臓を握りつぶされたかのように、息が詰まった。


 見つかったのか。私は殺される……?


 しかし彼が路地裏に足を向けることはなかった。疾風が巻き上がり、血の雨が降る。誰かが来た。


「…桃李とうり子供ガキを虐めるのはやめろ」


 ピンク髪の青年の横に現れたもう一人の人物は、死体を道に投げ捨ててそう呟く。


「…おめぇかよ、緋澄ひずみ


 桃李は忌々しそうに吐き捨てると、爪に突き刺さったを放った。は美しい放物線を描き、彼女の僅か後方に落ちる。ぐしゃりと臓腑が潰れる音がした。反射的に漏れそうになる悲鳴を、首を絞め上げて堪える。そこには、変な方向に首がねじ曲がった幼子が倒れていた。抉り抜かれた瞳。切り落とされた耳。縫い合わせられた口…戦慄と悪寒で身体が震える。


「もう今日の時間は終わりだ。帰るぞ」


 緋澄は桃李にそう語りかけた。その言葉に触発されるかのように、彼女の緊張がほろほろと解けていく。


 終わった。終わったんだ。


 今日の【狩り】は終わったんだ…今日も生き延びたという安堵と、今日も生き延びてしまったという憂鬱が胸を突く。彼女がそっと大通りを伺っていると、二人の会話が耳に飛び込んできた。遠くで雷鳴が泣く。


「…そういえば、先ほどの連絡には応答したか」

「知らねぇ」

「…湖白が……94ed8cb191cc82f094ad8ca982b582bd82e782b582a2 」

「837d835782a9814182a082cc8f9782e08ca982c282a982e982a98148?」

「82ed82a982e782c882a20a 」


 言葉は容易に聞こえたはずだった。なのに思考は停止し、記憶データには一本一本亀裂が生まれていく。やがてそれは大きな傷となり、女の胸を深く抉った。

 嗚呼、何も聞こえない、否。? しかし、頭で理解していても、心では理解出来ないものがある。聞きたくないと、認めたくないと、願うものがある。


「まぁ良いさ…どっちにしろ遊ぶには最適の玩具おもちゃだ」


 緋澄の話を聞いて、桃李の片頬が上がった。雨が頬を流れていく。このまま自分も流れて消えてしまえば良いのに、そう思った。この世界に向けられた懺悔の気持ちと、一筋の希望もない心と共に…


「……91d282c182c482c482e282e982e6838a835e0a 」


 桃李がそんな事を呟く。まるで、彼女がここにいる事を勘付いているかのように。彼ならばきっと、この場で無力な女を殺すことなど動作もない事だろう。なのに彼は何もしない。女を誘うかのように、陰湿な笑みを浮かべ手をこまねいている。聞きたくない。認めたくない。だから聞かないように心を閉ざした。理解する必要などなかった。この人のなりをした男の言葉にも、自分の内で叫ぶ惨めな女の声にも──


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81 67 82 c7 82 a4 82 b7 82 ea 82 ce 81 68 0a ……


 記憶が幾ら上書きされようが、心に潜む【326182474624863】が消えることはない。だから聞かないことにしたのだ。人々の喧騒も、他者からの慈しみも、悪人からの罵倒も。


──自分の本当の声さえも。


 静けさに包まれた路地の裏。彼女は頭を抱えてうずくまる。雨は先ほどよりも温かく、空は先ほどよりも明るく、緩やかに時を運んだ。それは錆びた鉄と血をはらんだ麻薬。どこまでも死を赦す、絶望の香りだった。



【記録】

20XX年

エンブリオたちによる【狩り】は順調に進んでいる。

自今も政策を推し進め、この世界から不要な人間を完全に排除する所存。

世界は造られた者により安寧を手にし、幸福に浸る。そのイデオロギーを忘れてはならない…


…なお、本件では所在が不明となっていた初期型の人造人間キマイラを発見。これから先の処遇は未定である……

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