偽りの名と死神と


 咲穂さほ瑞綺みずきに声を掛ける。何人かが振り返り、彼女の大声に眉根を寄せた。彼らを取り囲んでいた貴婦人たちも、怪訝そうに咲穂を見つめている。彼女はてついた空気に息を呑み、自身が大きなる間違いを犯してしまったことを理解する。否。根拠はそれだけではない。

 瑞綺の後方にたたずむ黒衣の男。彼を取り巻く空気が、刹那にして姿を変えたからだ。瑞綺の隣で柔らかな微笑をたたえていた顔は一変し、黒髪の隙間から覗く唐紅からくれないの瞳が、咲穂の心の臓を射抜いている。その眼光は燃えるように熱く、咲穂の心を焼き焦がすかのようだった。何か逆鱗に触れるようなことをしてしまったというのか。考えど答えは出ない。しかしその血のように鮮やかな瞳は確かに、少女を殺そうと息を潜めていた。


 咲穂は辺りに充満する殺気に震駭しんがいし、きゅっと拳を握る。握りしめた手から伝わる自身の細やかな震え。少女は狼狽ろうばいし、成す術もなく男から目を逸らす。空気が微妙に振動し、黒衣の男の形の良い唇が微かに開く。


、誰か人をお探しかな?」


 しかしその男が言葉を発する前に、瑞綺とおぼしき青年がそう問うた。咲穂は驚いて彼を見上げる。長いブロンドの髪。桜色の唇。空のように青く澄んだ瞳──瑞綺だと疑いもせず声を掛けたが、問いかけを聞く限り、咲穂との面識はないように思えた。周りの人の反応も相まって、少女は不安に駆られる。──その言葉が少女の脳内を駆け巡った。


「あ、あの、ごめんなさ…」


 咲穂は慌てて、謝ろうと口を開く。しかし青年は微かに笑みを零し、赤面する少女にそっと自らの顔を寄せた。唇が微かに動く。


『ぼ、く、に、あ、わ、せ、て』


 彼の口は、確かにそう動いた。その途端に咲穂は理解する。

 これは人違いなどではない──と。


「は、はい…」


 少女はほっと胸を撫で下ろし、瑞綺に話の調子を合わせ始めた。


「あまり見慣れない顔だけれど、

 もしかしてこのパーティーに参加するのは初めて?」

「そ、そうなんです…」

「そうか、この会場は広い。人探ししてるんだよね? 僕が手伝ってあげる」


 、クスッと笑みを零した。その優しげな笑みに心がゆるむ。間違いない。この青年は瑞綺だ。


「というわけだからすまないね、あとはノエルに頼むよ」


 瑞綺がそう言って後ろを振り向くと、貴婦人たちは心底不満そうな顔をする。一方瑞綺に全てを投げ出された黒衣の男は、有無も言わずに頷いた。


「さ、行こう」


 瑞綺は貴婦人たちになど目もくれず、そっと咲穂の手を取る。白いシルクの手袋が、シャンデリアにあてられて煌めいた。少女はそれを見て、ずっと前に読んだお伽噺を思い出す。憧れていた舞踏会にやってきたお姫様Princess。その話に描かれていた王子様は、きっとこんな感じだったのだろう。


 会場を歩きながら、瑞綺は申し訳なさそうに口を開く。


「これは伝えてなかった僕が悪いんだけどさ…実は『瑞綺』って偽名なんだ」

「そうなんですか…?」


 咲穂はその告白を心外に思った。ならば最初から偽名など名乗らずに、本名を告げれば良かったのではないか──瑞綺の話は続く。


「そ、だからここにいる皆の前では、『』って呼んで」


 手を取り合って歩きながら、瑞綺──もといアンリはそう微笑んだ。少し哀しそうな、儚い笑顔。こんな顔瑞綺はしない。咲穂はそう思い、目の前の青年がアンリであることを理解する。瑞綺よりも影があるその青年は、咲穂を見下ろし薄い笑みを浮かべていた。


「アンリさん、ですね…! わかりました」


 少女の返答を聞いて、アンリは満足そうな顔をする。


「ありがとう」


 優しげな笑みが辺りに溢れた。

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