愚かな瞳に乾杯を

 その街は、想像を超えた街であった。

 白く無機質な壁の先には、目を疑うほどの世界が広がっていた。御伽噺おとぎばなしの中でしか聞いたことのないような、全てが整った完璧な世界。街一帯は薄いガラスで覆われ、雰囲気ムードに合わせ空模様が移り変わった。外で降り続いていた雨も、ここでは鮮やかな碧空へきくうに姿を変えている。息を呑んだ。鼻をくすぐる芳香は死臭ではなく、華やかな花束ブーケの香り。目に映るのは痩せ細った人々ではなく、豪華なドレスに身を包んだまばゆい人々。違う。こんなにも違うのだ。実感するのは世界の広さとその格差。感動と屈辱が混じった世界に、咲穂さほはただ一人佇んでいた。


「咲穂?」

「……はい」

「緊張してる?」


 朱音あかねが隣で微笑む。肩が開いたマーメイドラインのドレス。スプルース色のレースが幾重にも重なった作りは、身長の高い彼女にぴったりだ。


「そんなに気負いする必要はないわ。

 折角のパーティーだし楽しみましょう」

「……はい」


 気を利かせてくれた上司の声にも、咲穂は緊張した面持ちで答える。


 朱音はそんな咲穂の表情に笑みを溢すと、彼女の手を取った。


「…今日はよろしく、私のお姫様My Princess

「!?」


 咲穂は驚いて顔を上げたが、次の瞬間には破顔する。


「……はい!」



「あー、あ! あの子とか可愛ぇな! あ、でもあの子も捨てがたいぃぃ…

 ね、響葵ひびきはどう思う?」


 パーティー会場のすみ。そこには黒いスーツに身を包んだ二人の人物が立っていた。一人は柔和な笑みを浮かべ、一人は獣の如く鋭い眼光を光らせている。


「ねぇ? 聞いとる??

 あの女の子と手前の…あ、今ショートケーキ取った子!

 どっちがえぇと思う??」

「黙れ」

「ねぇねぇ響葵??

 あ、もしかしてわいが女の子物色してるのが気に食わないんや! そうやろ?

 響葵はわいのこと大好きやもんなー!! っていったい!!!」


 響葵は口煩い上司の腹に拳をめり込ませた。上司…瑚都ことは叫び声を上げると、その場に無言でうずくまる。


「今は仕事中ですよ」

「えぇー!! 折角のパーティーやん! 楽しまなきゃ損やん!!」


 響葵の人を凍てつかせるような視線にも、瑚都は平然と愚痴ぐちを返した。


「気になる女の子を探すくらいなら、標的ターゲットを探して下さい」


 響葵が苛々とそう告げると、上司は不貞腐ふてくされながらも辺りを見回す。彼女はその様子をじっと見つめていた。


 特に怪しい素振りはない。いつも通りの上司。いつも通りのちゃらんぽらん具合だ。しかし油断は禁物。、猟奇的な裏の顔がある。


 標的ターゲットを探すよう伝えたものの、本当は見つけて欲しくなどなかった。見つかれば最後、彼女たちは彼の玩具おもちゃと化してしまうだろう。そうなってしまえば、幾ら響葵であっても助けることは出来ない。標的ターゲットは臓器までズタズタに裂かれ、まとめて捨てられる。それだけは避けなければならなかった──蒼牙そうがとの約束を守るためにも。


 響葵は人に溢れた会場で、



「…瑞綺みずき


 声を掛けられて振り向くと、そこには美麗な青年が立っている。彼は瑞綺とは真逆の黒い礼服に身を包み、静かな微笑みを浮かべていた。


「…しま

「そろそろ行かないと。皆が待ってる」

「君も大概だろ」


 縞の静かな声かけにそう返すと、彼は黙って肩を竦める。


「緊張してる?」

「全く」

「可愛げないな」


 縞の髪に刺さる紅い薔薇に触れた。ひんやりと冷たい感触が伝わる。宝石で作られた仮初かりそめの赤薔薇。


「…俺は瑞綺に指示された通りに動くから」

「あぁ」


 互いに耳を寄せ合いそう囁き合う。


「あいつらに吠えづら欠かせてやろう」

「俺たちは玩具じゃない」


 政府アルカディアが欲しいのはいつだって資料データだった。より良い人造人間キマイラを作るための資料データ。瑞綺はその中で、最も完全に近い見本サンプルだった。その責任は重く、いつも彼に伸し掛かった。地位は向上させるよりも、守るほうが難しい。しかし瑞綺は有無も言わず、その重責に耐え続けた──全てはこの日のために。そう、『


は違う」


 瑞綺は自分自身に言い聞かせるようにそう呟く。


「さぁ勝負ゲームを始めようか」


 桜色の唇が、あでやかな笑みを湛えた。



 一人の少年はじっと画面を見つめていた。部屋はカーテンで閉ざされ薄暗い。少年には、今が昼なのか夜なのか、皆目検討もつかなかった。しかしそんなことは些細な問題だ。

 画面の奥の敵を蹂躙じゅうりんした彼は、詰まらなそうにゲーム機を置く。このゲームを始めてから37分29秒。あっという間に、少年の化身アバターは頂点に輝いた。しかし彼の心が満たされることはない。

 彼は人を殺すことに快楽を覚える人造人間キマイラ──

 少年は一つため息を漏らすと、腕に抱え込んでいた巨大な兎のぬいぐるみに顔を埋める。ぶかぶかのフードから垂れる兎の耳も、気怠げに揺れた。そのフードの縫い目から覗く、ライトブルーとファンダンゴの瞳。少年は退屈していた。何か面白いことは起こらないか、と。


 その時。


──ピコン


 画面に一件の通知が浮かび上がる。少年はその連絡先を確認し、思わず笑みを浮かべた。オモシロイ事が起こる予感がしたのだ。そしてそれはきっと当たる。少年は興奮で震える手を抑え、そっと通話ボタンを押した。


「……もしもし」


 か細い女の声が聞こえる。その声は聞き覚えがあった。


「こういうときは久しぶりって言ったほうが良いんだっけ…」


 少年は譫言うわごとのようにそう言うと、



と呟いた。電話口の空気が張り詰める。


「今日は何の用?」


 少年は眠たげにそう尋ねた。リタは僅かに躊躇ってから、やがて意を決したように口を開く。


「あ、あなたたちがずっと探していた女がいたじゃない?

 あの子について有力な情報を手に入れたの」


 少年の口から思わず笑い声が漏れた。慌てて口を覆う。


「ね、良かったら取引しないかしら」

「内容は?」


 彼が笑みをこらえそう応えると、向こうの空気が色めき立った。


「実は、この前あの子に会う機会があってね。

 その時に通信機を忍ばせといたの…位置も会話も全てが筒抜けになる機種タイプ

 本当に微細なものだから絶対気づかれないわ」


「取引条件は?」

「………

「…?」


「……今から片っ方、受信機を持っていくわ。

 


 少年はリタの声を聞いて愕然とする。しばらくすると腹の底からふつふつと笑いが込み上げてきた。思わず吹き出す。それはやがて爆笑へと変わった。


「マジ滑稽、マジ打算的」


 少年はそう呟いて、マウスを動かしキーボードを打ち込む。大量の文字の羅列が浮かび上がり、やがてとある場所を映し出した。少年は口角を上げ、その情報を落す。電話口の相手はじっと少年の声色を伺っていた。


「でも嫌いじゃない」


 画面に現れた地図。その一点に緑色の丸が浮かび上がっている。少年はその場所を打ち込むと、。それは同時に五人の通信機を揺らす。


「本当?」

「良いよ、その情報呑んであげる。

 でもニアは? あの子はどうでも良いの?」


 少年の問いかけに、少しの間沈黙が降りた。


「えぇ、良いわ別に。


 リタが呟いた答えは、あまりに残酷なもの。しかし少年の胸は高鳴るばかりだ。


「君が変わってなくて良かったよ。

 確かあの時も…」


 少年はくつくつと笑い声を漏らしながら、そう呟く。


 何年前だっただろうか。政府アルカディア研究室ラボから逃亡を図った者がいた。彼らは監視の目をすり抜け、外の世界へ機密情報を持ち出そうとしたのだ。しかし彼らの計画は失敗に終わり、ほとんどが道中で殺された──たった一人を残して。生き残った研究員は、


「僕のところの部下を送るから、ゲート前で待ってて。

 大丈夫、約束は守るよ」


 少年がそう告げると、相手は嬉々と応じ電話を切った。再び静寂に包まれた部屋の中で、少年はほくそ笑む。また別のところから通知が入る。湖白こはくだ。


「今から計画プランをAからBに移行する」


 応じると、そんな声が聞こえる。湖白は目の前に揃う、少年以外の兄妹たちに指示を出していた。


桃李とうり翠蓮すいれんはあいつを捕まえろ」

了解ラジャ


 名指しされた二人は短く応答し、暗闇に姿をくらます。


「…藍兎あいと良くやった。お前は会場内の監視を続けてくれ。

 私と緋澄ひずみは他の目標ターゲットを探る」


 湖白は素っ気なくそう告げると、通信を切った。



みやび、お前もあとで合流しろ」


 部屋を出ようとしていた湖白は、ふと思い出したかのようにそう呟く。血のように赤く、鮮やかな髪を持つ男は、黙って頭を下げた。黒い軍服。黒い手袋。美しい化粧を施した顔。


 


 湖白は緋澄を連れ、部屋を去った。



 藍兎は再びため息を漏らし、椅子に深く座り直す。ただ先程と一つ違うのは、不思議と高揚感に駆られている事であった。これから始まるのは死の遊戯デスゲーム。命を賭けた鬼ごっこだ。


「マジ滑稽、マジ愚弄」


 少年はそう漏らし、また微かに笑う。それは嘲笑と言うに相応しい、悪役ヒールの笑顔だった。



「えーそれでは皆さん!この聖なる祝日に──」


 鮮やかな世界。人々の喧騒。様々な思惑。喜も哀も、白も黒も、善も悪も。今日は我を忘れたかのように躍り狂う。人々の瞳は興奮に濡れ、宝石のように煌く。


乾杯サンテ!!」


チン──とグラスが重なった。シャンパンの泡が空に消えていく。


 こうして、聖なる祝日は混沌の中に幕を開いた──

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