白い孔雀

 瑞綺みずきは涙を堪えながら、黙って部屋に戻った。自室を通り過ぎ、一つ隣の扉を見上げる。しまの部屋だ。瑞綺はそっと耳を寄せてみるが、誰かが動いているような気配は感じない。既に眠ってしまったのだろうか。

 入る口実はいくらでもあった。パーティーの招待状のこと、父親にまた嫌がらせを受けたこと、今回の試験結果のこと──しかし今は夜だ。いくら親しい仲とは言え、部屋に押しかけるのは気が引ける。そんな良心が、瑞綺の手をはばんだ。扉を叩こうと伸ばしていた手を下ろす。瑞綺はとぼとぼと自室に戻った。


 今日は生憎、星が降るほど美しい夜だった。開け放ったままの窓から漏れ出す月明かりが、床に敷き詰められたタイルを濡らしている。彼は窓辺に近づくと、その月華げっかをそっとすくった。ゆらゆらと揺らめくその炎は、瑞綺の白い手から水のように零れ落ちていく。ふと嘆息を漏らす。春の夜はおぼろげで、全てがはかない。こんな夜だ。彼は来るだろうか。そんなことが頭をよぎり、「まさか」と微かに笑った。月が綺麗な夜は、いつもあの日を思い出す。美しい月が満ちるとき、彼はその姿を現す。


 今日はもう寝よう。瑞綺はそう思い、カーテンを閉ざした。夜着に着替えようとクローゼットに近づく。その刹那、姿見に映った自分と目があった。


 脳内を目まぐるしく色彩が瞬く。反射的に頭を抑え、数歩後ずさる。点滅する光はやがて落ち着き、一つの映像ビジョンになった。


 静かな夜。部屋の中央に佇むのは瑞綺、自分だ。彼はただぼうっと窓の外を眺めている。はらはらと舞い落ちる孔雀の羽。そしてそこに佇む一人の人物──


 息を呑む。再び鏡に映る自分を見つめる。その後ろで僅かにカーテンがいだ。振り返り、目を見開く。はらはらと孔雀の羽が舞い落ちる。先ほど脳裏を過った景色のように、美しい周期を描き一枚、また一枚と溢れる。瑞綺はその幻想的な世界に、ただただ息を漏らした。まだこの街も堕ちたものではない。


 夢のような世界に、人の吐息が漏れた。月は淡く輝き、青年の白銀の髪を揺らす。涼やかな鈴音すずねが零れ、空気を震わす。瑞綺はその光景を、瞬きをすることもなく見つめていた。いつの間に窓辺に腰掛けた青年は、瑞綺を見下ろしている。


「…久しぶりだね、れい


 瑞綺は青年に近づくと、そう微笑みかけた。彼はそれに微笑み返すことなく、じっとその瞳を見つめる。風が吹き、耳に下がる孔雀の羽が揺れた。チリン──また一回、鈴の音が鳴る。


「……ちゃんと君から頼まれたことはやっているよ?」


 瑞綺は視線を逸らし、そう呟いた。目が合う度、その美しい蜂蜜色の瞳に視線を奪われる。自分の全てを見透かされているような、そんな感覚が襲う。

 麗は瑞綺の声に黙って頷いた。風が髪に絡まる。優しい鈴の音が響く。


「なら何で」

「聖なる祝日」


 瑞綺が少し声を荒げると、麗は細い人差し指を口元にかざしそう呟く。黒手袋の上で、銀色の指輪リングが控えめに光っていた。瑞綺は反射的に口をつぐむ。


「その日のパーティーで、咲穂を助けてやってほしい」


 魅惑みわく的な声だった。水面に水がしたたり、波紋を描くがごとく、その声は空気を伝播でんぱし心を震わせる。


「来るの?」


 問いかけると麗は首を縦に振った。生糸のように繊細な髪が、その褐色の肌に落ち影を作る。


「…わかった、出来る限り協力はする」


 瑞綺は麗の声にこくりと頷いた。


 これは借りだ。あの日。彼に、麗に、連れ出して貰ったあの日に、自らが作った借り。瑞綺の願い事を叶えてくれた代わりに、今度は瑞綺が手を貸す番だった。


「ありがとう」


 美しい青年はそう微笑む。月明かりに濡れた彼は、この世の何にも敵わぬ優美な気品をまとっていた。。ふとそんな言葉が脳を揺らす。幼い自分はあの日、目の前に現れた少年をそう呼んだ。


「これくらい当然だよ」


 瑞綺はそう言って、微笑みを返した。


 麗から咲穂の日常の様子を聞き出して欲しいと頼まれたのは、もうだいぶ前の事だ。上手いことチャンスを掴んで月に何度か会えるようになり、今もこうして麗の望みを叶え続けている。


「今日はよく笑うんだね」


 月の精霊はふと、瑞綺を見て囁いた。月光が彼の長い睫毛を縁取ふちどる。


「そういう時は、何かあった時」


 目敏めざとい精霊だ。瑞綺は心の中で軽く舌打ちをする。でも嫌じゃない。寧ろ嬉しい。

 麗がふわりと部屋に舞い下りる。優しく引き寄せられて、唇を奪われた。何故。そう思う。何故この青年は、他人の心の内をそんなにも、感じて、察して、覗き込んで。優しく包み込んでくれるのだろう。鼻の奥がつんとする。涙が頬を伝った。その口付けは先刻の愛撫を忘れさせる、甘く優しいキス。そして罪深き人間をゆるす、温かな抱擁ほうようだった。


「麗」


 唇が離れる。瑞綺は精霊の名を呼んだ。色んなことを聞きたかった。今の生活のこと。仕事のこと。この世界のこと。

 そして、あの日のそれからのこと──


「良い子はおやすみの時間だ」


 しかし麗は、瑞綺の声を遮るかのようにそう囁いた。わだかまりがけて、意識が曖昧あいまいになっていく。瑞綺はせめて、長いこと心にめている疑問を口に出そうとした。


 彼と視線を絡めたときに見える未来ヴィジョン

 爆風に揺れる髪と、辺りに満ち溢れる鮮血。

 自分たちを待ち受ける、最期の戦い。


 ねぇ、貴方はこの長い長い戦いの終焉の地で。



──



 口に力が入らない。全身が弛緩しかんしていく。


 最後に見えた青年の口元。あの日とは真逆の、哀しげな笑みが浮かんでいる。貴方は違かったはずだ。もっと無邪気でよく笑い、巫山戯ふざけるような人だったではないか。何故変わってしまったの。何が貴方を変えてしまったの。ねぇ。


──


 瑞綺の瞳から溢れた涙は夜に落ち、宝石のように煌めいた。



【記録】

20XX年

本日、長年穏健だった世界に恐怖のとばりが降りた。魔女だと謳われていた少女が、見せしめとして処刑されたのだ。その娘は金剛石こんごうせきのように澄み切った瞳を持っており、それ故という、非常に特異な能力を持っていた。私たちはその少女について、興味深いデータとして譲り受けたいと申し出たが、結局計画はちりと化してしまった。最悪だ。


……これで彼らに残ったのは、か弱い一人息子のみとなってしまった。あの少年の病気は治らぬ。死ぬのも時間の問題だろう。


……所詮人は人。どこまでも貪欲で滑稽な下等生物である。少年が死んだあかつきに彼らが目指すものは、政府にこびを売り餌を待つ肥えた犬。私たちに金という食糧を与え続ける豚だ。嗚呼、滑稽。人間のなんて醜い事だろうか……

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