99%の同情


 警視庁本部を出た響葵ひびきは、ふときびすを返した。綺麗に揃えられた長い黒髪。その隙間から狼のように鋭い瞳が覗く。視線を上げた先に見える硝子がらす孤城こじょう。どこまでも高いその建物は、夕日に濡れ輝いていた。一見美しいその煌めきさえ、瑠璃るりいろの瞳には陳腐ちんぷに映る。政府の権力にあやかり、甘い蜜をすする寄生虫の巣窟そうくつ。響葵はこの場所が嫌いだった。


 小綺麗な街をすり抜けるように歩いて、ゲート前まで辿り着く。証明書を提示すると、易々とゲートは開かれた。外に出る。まとわり付くような空気から解放され、足取りが軽くなる。長い髪が風になびき、螺鈿らでんのように揺れる。彼女はそのまま踊るように、自宅へと帰った。

 

 貧民街の外れにある小さな店。そこが彼女の住居である。中に入ると、カランコロンと小気味の良いベルの音が響いた。古びた家具や食器。色褪せたドレスやスカーフ。内側に比べれば安いものだが、ゲヘナでは高級品にあたるような代物たち。それらは所狭しと、小さな家に並んでいた。

 ベルの音に反応するかのように、何者かが首をもたげる。


「アオ」


 響葵は内側では決して見せることのない微笑みを浮かべると、アオに近づいた。アオの腹部では、少女がすやすやと眠っている。アオは響葵は見やると、主人の帰宅を喜ぶかのように低くうなった。彼女はその鼻面をそっと撫でてやる。黒く艶めく毛並み。くすんだ青い瞳。大きな黒豹はただ静かに、主人の愛撫に目を細めていた。


「ねねちゃん、またこんなところで寝ちゃったのね…

 風邪を引くと何度も言っているのに…」


 彼女は困ったようにそう呟いて、獣に寄り添うように眠る少女を抱きかかえる。彼女は僅かに身動ぎしたが、またこっくりと夢の世界へと誘われていった。黒豹は少女の重みが消え去ったことを確認すると、身を起こす。風が凪ぐ。その瞬間にはもう、あの黒い獣はいなくなっていた。


「響葵さん、お客さんが来るんだったら先に伝えておいて欲しかったな」


 獣の代わりに姿を現した青年…蒼牙そうがはそう言って、じっと響葵を覗き込む。元々響葵は背の高いたちだったが、この男には敵わない。



 彼はそう言うと、呆れたように首を振った。


「どうして?」

「ねねがさ、勝手に外出ちゃって。それを見られたの。

 もう心臓止まるかと思った」


 響葵が問い返すと、蒼牙はそう言って微笑む。事件を引き起こした張本人は、幸せそうに寝息を立てていた。柔らかいほっぺたにりんご色が映えている。響葵はその寝顔を愛おしげに見つめた。


「ね、響葵さん。僕には何にもないのかな」


 そんな彼女の表情かおを見て、蒼牙はねたように声を漏らす。


「やらなきゃいけないこと、ちゃんとやったんだけど」


 しゅるしゅると音を立てて、獣の耳と尻尾が現れる。それは飼い主からのご褒美を待つかのように、ぴくぴくと動いた。彼女は困ったように微笑むと、蒼牙に手を伸ばす。


「アオ、とても偉いです。頑張りました」


 頭を目一杯撫でてやる。響葵の温もりを感じ取り、黒い尻尾が嬉しそうに揺れた。


「ほんと?」

「えぇとても」

「やったぁ」


 嬉しそうに顔を綻ばせ、蒼牙は響葵に抱きつく。


「ちょ、ちょっとアオ…! ねねちゃんが…!」


 彼女は慌ててその腕を振りほどこうとするが、一向に離れる気配がない。


「待ってて、今充電中だから」


 耳朶みみたぶの辺りに息が掛かる。響葵は諦めたように動きを止めると、その大きな背中をぎゅっと抱きしめてやった。彼は嬉しそうに喉を鳴らす。警戒心の強い獣が見せる、猫のように甘やかな顔。それは自分のあるじにだけ見せる、信頼の証。そういうものなのだ。彼は飼い主の言うことにのみ従い、飼い主のみを愛し、また愛されることを望む。そういうものだ。彼は、そういう人造人間キマイラなのだ──


「ひーちゃ? ぎゅうぎゅうたいむ?」


 蒼牙の抱擁に耐えていると、ふとそんな声がする。下を見ると、いつの間にか目を覚ましたねねが、じっと響葵を見つめていた。


「どうやらそのようですね…痛くないですか」


 響葵がそう聞くと、ねねはへにゃっと笑う。


「んんー! あったかいー!!」


 そのまま三人で、しばらく抱き合った。少し背中が痛くなってしまったが、存外こんな日も悪くはない。



「ね、響葵はずっとそばにいてくれる?」


 それからしばらく。

 沈んでいく夕日を眺めながら、蒼牙がふとそんな言葉を溢した。その声が僅かに震えているような気がする。


「…なにかありましたか」

「……た」

「ちゃんと言ってくれないと聞こえません」

「…色々、嫌なこと、思い出した」

「そうですか」


 ここにやってきたらしい少女。今日上司から話を聞く以前に、8ee989b9がよく話していた。【EYアユ】の血を引く忌まわしき女だと、そう聞かされていた。政府アルカディアはこの件にやたらと干渉してくる。それもそうか、【EY】は彼らにとって最大の脅威だったのだから。


「大丈夫ですよ、側にいます」


 響葵は彼の恐怖を拭うかのように、その背中をさすった。彼はそれに促されるかのように口を開く。


「………


 噛みしめるように漏れたその言葉が、響葵の胸をと突いた。それきり会話は途切れ、切れた言の葉が宙を舞う。夕べの空は茜色に染まり、彼の瞳を悲しげに揺らした。


「蒼にぃ?」


 ねねが心配そうに視線を蒼牙に移す。彼ははっとしたように顔を上げ、ねねに微笑み掛ける。


「ごめん、今悩んでも仕方ないか」


 そう言って、少女の頭を撫でた。彼女は嬉しそうに目を細める。


 響葵はこの青年の苦しみを完全に理解することは出来なかった。同情などという安易なものは、返ってその傷をえぐるだけだ。この街に暮らす者、一人一人が異なる苦しみと戦っている。蒼牙も。勿論響葵も。


 やり直せることは良いことだ。人生にはやり直しが利くものと利かないものがある。少なくとも彼は、今からでも少女を救える機会チャンスがあった。その月の裏側を暴き、彼女を連れ出すことが出来た。では自分はどうだろうか。

 響葵の記憶に眠る欠片かけら。流れる白銀の髪と美しい琥珀アンバーの輝き。彼女の人生を変えたその人は、置き手紙と幼気いたいけな少女を残し、ある日忽然と消えてしまった。もう二度と帰っては来ないだろう。彼は響葵の手の届かない、はるか遠いところへ行ってしまったのだ。


 日が暮れ、空に紫紺色が落ちる。それは絵の具のように広がって、明るい空を瞬く間に闇へと昇華した。響葵はその空を見上げる。鳥たちが羽を広げ、空へと吸い込まれていく。彼らに居場所はあるのだろうか。帰る場所が、温かい家族があるだろうか。だとしたら響葵はいっそ、鳥になりたかった。


「たいちゃ!」


 ねねがそう言って、消えていく一匹の鳥に手を伸ばす。


 あの人は今、どこにいるのだろうか。気付かなかった。自分の全てに気付いてくれた人だったのに。彼の悲しみ一つ気付けなかった。彼を独りぼっちにさせてしまった。あの人が本当は寂しがり屋なこと、ちゃんと知っていたはずなのに。


 空を見つめる。彼女もまた、その空の合間に彼を探していた。あの日のように突然姿を現して。自分をさらっていって欲しい。何処か遠くへと。まだ見ぬ世界へと。


 はらりと羽が舞い落ちる。それは美しい孔雀の羽だった。しかし彼女はそれに気付くこともなく、店のシャッターを下ろす。煌めく羽は風に吹かれ、何処か遠くへと運ばれていった。

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