99%の同情
警視庁本部を出た
小綺麗な街をすり抜けるように歩いて、ゲート前まで辿り着く。証明書を提示すると、易々とゲートは開かれた。外に出る。
貧民街の外れにある小さな店。そこが彼女の住居である。中に入ると、カランコロンと小気味の良いベルの音が響いた。古びた家具や食器。色褪せたドレスやスカーフ。内側に比べれば安いものだが、ゲヘナでは高級品にあたるような代物たち。それらは所狭しと、小さな家に並んでいた。
ベルの音に反応するかのように、何者かが首を
「アオ」
響葵は内側では決して見せることのない微笑みを浮かべると、アオに近づいた。アオの腹部では、少女がすやすやと眠っている。アオは響葵は見やると、主人の帰宅を喜ぶかのように低く
「ねねちゃん、またこんなところで寝ちゃったのね…
風邪を引くと何度も言っているのに…」
彼女は困ったようにそう呟いて、獣に寄り添うように眠る少女を抱きかかえる。彼女は僅かに身動ぎしたが、またこっくりと夢の世界へと誘われていった。黒豹は少女の重みが消え去ったことを確認すると、身を起こす。風が凪ぐ。その瞬間にはもう、あの黒い獣はいなくなっていた。
「響葵さん、お客さんが来るんだったら先に伝えておいて欲しかったな」
獣の代わりに姿を現した青年…
「うっかり殺しちゃうところだったんだけど」
彼はそう言うと、呆れたように首を振った。
「どうして?」
「ねねがさ、勝手に外出ちゃって。それを見られたの。
もう心臓止まるかと思った」
響葵が問い返すと、蒼牙はそう言って微笑む。事件を引き起こした張本人は、幸せそうに寝息を立てていた。柔らかいほっぺたにりんご色が映えている。響葵はその寝顔を愛おしげに見つめた。
「ね、響葵さん。僕には何にもないのかな」
そんな彼女の
「やらなきゃいけないこと、ちゃんとやったんだけど」
しゅるしゅると音を立てて、獣の耳と尻尾が現れる。それは飼い主からのご褒美を待つかのように、ぴくぴくと動いた。彼女は困ったように微笑むと、蒼牙に手を伸ばす。
「アオ、とても偉いです。頑張りました」
頭を目一杯撫でてやる。響葵の温もりを感じ取り、黒い尻尾が嬉しそうに揺れた。
「ほんと?」
「えぇとても」
「やったぁ」
嬉しそうに顔を綻ばせ、蒼牙は響葵に抱きつく。
「ちょ、ちょっとアオ…! ねねちゃんが…!」
彼女は慌ててその腕を振りほどこうとするが、一向に離れる気配がない。
「待ってて、今充電中だから」
「ひーちゃ? ぎゅうぎゅうたいむ?」
蒼牙の抱擁に耐えていると、ふとそんな声がする。下を見ると、いつの間にか目を覚ましたねねが、じっと響葵を見つめていた。
「どうやらそのようですね…痛くないですか」
響葵がそう聞くと、ねねはへにゃっと笑う。
「んんー! あったかいー!!」
そのまま三人で、しばらく抱き合った。少し背中が痛くなってしまったが、存外こんな日も悪くはない。
◆
「ね、響葵はずっとそばにいてくれる?」
それからしばらく。
沈んでいく夕日を眺めながら、蒼牙がふとそんな言葉を溢した。その声が僅かに震えているような気がする。
「…なにかありましたか」
「……た」
「ちゃんと言ってくれないと聞こえません」
「…色々、嫌なこと、思い出した」
「そうですか」
ここにやってきたらしい少女。今日上司から話を聞く以前に、8ee989b9がよく話していた。【
「大丈夫ですよ、側にいます」
響葵は彼の恐怖を拭うかのように、その背中を
「………遅かったかもしれないな」
噛みしめるように漏れたその言葉が、響葵の胸をとんと突いた。それきり会話は途切れ、切れた言の葉が宙を舞う。夕べの空は茜色に染まり、彼の瞳を悲しげに揺らした。
「蒼にぃ?」
ねねが心配そうに視線を蒼牙に移す。彼ははっとしたように顔を上げ、ねねに微笑み掛ける。
「ごめん、今悩んでも仕方ないか」
そう言って、少女の頭を撫でた。彼女は嬉しそうに目を細める。
響葵はこの青年の苦しみを完全に理解することは出来なかった。同情などという安易なものは、返ってその傷を
やり直せることは良いことだ。人生にはやり直しが利くものと利かないものがある。少なくとも彼は、今からでも少女を救える
響葵の記憶に眠る
日が暮れ、空に紫紺色が落ちる。それは絵の具のように広がって、明るい空を瞬く間に闇へと昇華した。響葵はその空を見上げる。鳥たちが羽を広げ、空へと吸い込まれていく。彼らに居場所はあるのだろうか。帰る場所が、温かい家族があるだろうか。だとしたら響葵はいっそ、鳥になりたかった。
「たいちゃ!」
ねねがそう言って、消えていく一匹の鳥に手を伸ばす。
あの人は今、どこにいるのだろうか。気付かなかった。自分の全てに気付いてくれた人だったのに。彼の悲しみ一つ気付けなかった。彼を独りぼっちにさせてしまった。あの人が本当は寂しがり屋なこと、ちゃんと知っていたはずなのに。
空を見つめる。彼女もまた、その空の合間に彼を探していた。あの日のように突然姿を現して。自分を
はらりと羽が舞い落ちる。それは美しい孔雀の羽だった。しかし彼女はそれに気付くこともなく、店のシャッターを下ろす。煌めく羽は風に吹かれ、何処か遠くへと運ばれていった。
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