灰色、曖昧、涙の先の決意

 ドアが開く音がする。それと同時に顔を覗かせた上司を見て、咲穂さほは安堵の息を漏らした。


「ただいま」

「おかえりなさい」

「その顔は何かあったね」


 察しの良い上司はそう笑って、荷物を置く。


「手洗ってくるからお茶用意しといて。

 おやつの時間にしよ」

「……はい」


 咲穂の顔を見た朱音あかねは楽しそうにそう言ったが、外はもう真っ暗だ。おやつの時間にしては遅すぎる。きっと彼女は全てを見透かしたのだろう。自分の部下が今窮地きゅうちに立たされ、一つの大きな決断を迫られているということに。


 朱音の遠回りな優しさが咲穂の心を突く。ふと涙が零れそうになった。大丈夫。そう言われているような気がした。そうだ、自分にはこんなにも頼もしい上司がついているではないか。


 彼女は泣くまいと下唇を噛みしめ、キッチンに立つ。小さな鍋に水を張り、火に掛けた。カチカチッと音を立て、火が赤く揺れる。


 蒼牙そうがから話も聞いた。依頼人の家に行って確かめもした。最初は頑なに信じたくないと告げていた脳が、段々と平静を取り戻した。事実に変わりはない。少年をさらい、咲穂たちが対峙しなければならないその人物の名は湖白こはく。悲しみに暮れていた咲穂のことを慰め、共に生きようと笑いかけてくれた友達を、生きることにやっと希望を見いだせたあの日を、一瞬にして破壊したかたき


 その記憶は、思い出すには酷く億劫おっくうな気がした。


「咲穂、ぼうっとしない」


 ふと声がして振り向くと、すぐ近くに上司の顔がある。はっとして鍋を見やると、水は泡を発し沸騰していた。


「ごめんなさい」


 慌ててそう言い、火を落とす。


「聞いたよ、勝手に店から出て行ったんだって?」


 取り乱す咲穂に朱音はそう声を掛け、近くの壁に身を預けた。


「探したけど見つからなかったって困ってたよ」


 朱音はそう言って、ピンクの携帯を揺らす。わざわざ探してくれたのか。嗚呼、今日は失敗ばかりだ。


「あとで彼にお礼を言っておいて下さい」


 咲穂はそう言って、鍋に茶葉を入れる。透明だった水に赤茶色の花が咲く。


「え、彼? あぁ、あの子男に見えるけど女だよ?」


 咲穂の言葉を聞いた上司は、笑みを堪えてそう呟いた。


「え?」


 心外な言葉に朱音を仰ぐ。いくら上司であっても、その言葉に説得力はなかった。蒼牙が女であるはずがない。


「いやいや、男の人でしたよ」

「男な訳ないでしょ。仕立屋やってるのはずっと女性だもの。

 …ほら、あの大きな黒豹飼ってる子」

「黒豹…?」

「あれ、会わなかった? 毛触り最高なのに」


 豹は無論、女さえいなかった。あそこにいたのは黒髪のどこかミステリアスな青年と、海のように輝く瞳を持つ少女だけだ。


 咲穂は狐につままれたような顔をする。店は確かにあの場所だった。現に咲穂は情報を受け取り、それを確かめに行った。ならばあの青年は、一体何者だったのか。


「…咲穂?」

「あ、いえ何でもないです」


 きょとんと首を傾げる上司に、咲穂は愛想笑いを浮かべる。鍋から紅茶の甘い香りが漂う。咲穂は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、そっと鍋に加えた。


「私も調べてきたけど、やっぱエンブリオだったわね」


 前の会話で場の雰囲気をなごませたつもりだったのか、朱音は普段の会話のトーンのままそう呟く。咲穂の手がピタリと止まる。


「今度の聖なる祝日に、アムネジア内でパーティーが催されるらしくて」


 上司はそう言うと、ライターで煙草たばこに火を付ける。


「そこのオークションで、【狩り】のときに得た珍しい品々が売られるみたい」


 咲穂は無心に紅茶をかき混ぜていた。


「…きっとそこで、少年はオークションに掛けられると思うの」

「……」

「そのパーティーは年に一度しか開催されない大々的な催し物。

 きっと沢山の人がやってくるわ」

「…」

「王族、貴族、平民……そしてエンブリオを初めとする人造人間キマイラも」

「……」


 上司が吐き出した紫煙が、辺りを漂っていた。咲穂は出来上がった紅茶をカップに移す。手が微かに震え、紅茶が零れる。


「…行くんですか」

「うん、チケット偽造して貰った」


 朱音はそう言って、懐から二枚の紙切れを取り出す。


【Invitees List】

[General]

No. 1398514580 Akane

No. 1449414219210 Saho


「行きたくなかったら来なくてもいいわ。

 ただ私は上司として、店主として責任があるから。

 咲穂を置いてでも行ってくる」


 上司はただ一人、敵うことのない力に立ち向かおうとしていた。その勇気にただ脱帽する。

 咲穂にそれだけの勇気はなかった。あの時全てを失った。次もきっと無理だ。溢れるのは、そんな悲観的な言葉ばかり。無事に生きながらえるかもしれないという浅はかな願いは、あの日からとっくに捨てていた。

 もしかしたら、なんてことがこの世界で有り得るはずがない。

 ここに転がるのは生と死。天国と地獄。100%と0%──


 しかしもしここで咲穂が行かず、そして朱音が二度と帰ってこなかったらどうだろう。咲穂はまたあの地獄のような日々を送らなくてはならない。

 絶対に戻ってくると約束し二度と帰ってこなかったあの人を、ただずっと待ち続けた日々。その孤独と喪失感は、痛いほど理解していた。

 だから。白か黒しかないのなら。生か死しかないのなら。せめて。


「…私も行きます」


──


 朱音は驚いたように咲穂を見る。咲穂はその顔を見つめ、ぎこちなく微笑んで見せた。


「私だって朱音さんの部下なんですよ? それくらいの仕事はこなさないと」


 本当は震えるほど怖い。ここでは身近な、しかしどこか遠いものだと感じていた死の香りが、鼻腔びこうかすめていく。しかし同時に悟っていた。

 、ということに。


「さ、早く飲まないと冷めちゃいますよ」


 咲穂は明るくそう言って、紅茶と菓子をトレイに乗せる。湯気が立ち昇る。しかしあの甘い香りはしなかった。


「本当に行くの? あなたにはとても辛い選択になる」


 朱音の声が背中から聞こえる。


「えぇ、独りになるのは嫌ですから」


 振り向いて微笑むと、上司は目を見開いた。翡翠のように輝く瞳の中に、自分の寂しげな笑顔が浮かんでいる。朱音は咲穂に近づくと、その体躯をギュッと抱きしめた。暖かな温もりと、僅かな震えを感じ取る。

 

───そうか。怖くないわけないか。


「…大丈夫、何があっても私が守るわ」


 微かな吐息とともに、朱音はきっぱりとそう言った。昔の記憶がまた煌く。


 同じようなことをいつも掛けてくれる人がいた。私はあの人に、あの優しさに、どう返せば良かったか。


「…私にも守らせてください、朱音さんのこと」


 気付けばそう声を漏らしていた。

 もう守られ続けるのにはうんざりだ。そうやって大切なものを失って、自分の無力さを思い知る。針を胸で射抜かれるようなささやかな痛みに襲われる。もう二度と味わいたくはない、深い孤独と喪失感。


 上司の腕に手を回し、そっと抱きすくめる。これから先待ち受けるのは、どうしても超えられぬ高い障壁しょうへき絢爛けんらんと欲望が渦巻く、全てを忘れ去った華の都。

 果たして自分たちに超えられるだろうか。生きて帰ることは出来るだろうか。


 「…絶対戻ってきましょう、ここが私たちの家なんだから」


 最悪の可能性はいつだって、頭の片隅に染み付いていた。しかしそれだけが全てではない。自分には上司がいる。暖かな温もりがある。帰る場所がある。幸せを、感じて、掴んで、生きている。

 咲穂はもう一度、微かな希望を信じてみようと思った。


 二人で席につく。菓子を広げ紅茶を飲み交わす。苦い紅茶だ。気を取られていたお陰で最悪の味がする。咲穂はその苦味に顔をしかめると、泣きながら菓子を頬張った。

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