灰色、曖昧、涙の先の決意
ドアが開く音がする。それと同時に顔を覗かせた上司を見て、
「ただいま」
「おかえりなさい」
「その顔は何かあったね」
察しの良い上司はそう笑って、荷物を置く。
「手洗ってくるからお茶用意しといて。
おやつの時間にしよ」
「……はい」
咲穂の顔を見た
朱音の遠回りな優しさが咲穂の心を突く。ふと涙が零れそうになった。大丈夫。そう言われているような気がした。そうだ、自分にはこんなにも頼もしい上司がついているではないか。
彼女は泣くまいと下唇を噛みしめ、キッチンに立つ。小さな鍋に水を張り、火に掛けた。カチカチッと音を立て、火が赤く揺れる。
その記憶は、思い出すには酷く
「咲穂、ぼうっとしない」
ふと声がして振り向くと、すぐ近くに上司の顔がある。はっとして鍋を見やると、水は泡を発し沸騰していた。
「ごめんなさい」
慌ててそう言い、火を落とす。
「聞いたよ、勝手に店から出て行ったんだって?」
取り乱す咲穂に朱音はそう声を掛け、近くの壁に身を預けた。
「探したけど見つからなかったって困ってたよ」
朱音はそう言って、ピンクの携帯を揺らす。わざわざ探してくれたのか。嗚呼、今日は失敗ばかりだ。
「あとで彼にお礼を言っておいて下さい」
咲穂はそう言って、鍋に茶葉を入れる。透明だった水に赤茶色の花が咲く。
「え、彼? あぁ、あの子男に見えるけど女だよ?」
咲穂の言葉を聞いた上司は、笑みを堪えてそう呟いた。
「え?」
心外な言葉に朱音を仰ぐ。いくら上司であっても、その言葉に説得力はなかった。蒼牙が女であるはずがない。
「いやいや、男の人でしたよ」
「男な訳ないでしょ。仕立屋やってるのはずっと女性だもの。
…ほら、あの大きな黒豹飼ってる子」
「黒豹…?」
「あれ、会わなかった? 毛触り最高なのに」
豹は無論、女さえいなかった。あそこにいたのは黒髪のどこかミステリアスな青年と、海のように輝く瞳を持つ少女だけだ。
咲穂は狐につままれたような顔をする。店は確かにあの場所だった。現に咲穂は情報を受け取り、それを確かめに行った。ならばあの青年は、一体何者だったのか。
「…咲穂?」
「あ、いえ何でもないです」
きょとんと首を傾げる上司に、咲穂は愛想笑いを浮かべる。鍋から紅茶の甘い香りが漂う。咲穂は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、そっと鍋に加えた。
「私も調べてきたけど、やっぱエンブリオだったわね」
前の会話で場の雰囲気を
「今度の聖なる祝日に、アムネジア内でパーティーが催されるらしくて」
上司はそう言うと、ライターで
「そこのオークションで、【狩り】のときに得た珍しい品々が売られるみたい」
咲穂は無心に紅茶をかき混ぜていた。
「…きっとそこで、少年はオークションに掛けられると思うの」
「……」
「そのパーティーは年に一度しか開催されない大々的な催し物。
きっと沢山の人がやってくるわ」
「…」
「王族、貴族、平民……そしてエンブリオを初めとする
「……」
上司が吐き出した紫煙が、辺りを漂っていた。咲穂は出来上がった紅茶をカップに移す。手が微かに震え、紅茶が零れる。
「…行くんですか」
「うん、チケット偽造して貰った」
朱音はそう言って、懐から二枚の紙切れを取り出す。
【Invitees List】
[General]
No. 1398514580 Akane
No. 1449414219210 Saho
「行きたくなかったら来なくてもいいわ。
ただ私は上司として、店主として責任があるから。
咲穂を置いてでも行ってくる」
上司はただ一人、敵うことのない力に立ち向かおうとしていた。その勇気にただ脱帽する。
咲穂にそれだけの勇気はなかった。あの時全てを失った。次もきっと無理だ。溢れるのは、そんな悲観的な言葉ばかり。無事に生きながらえるかもしれないという浅はかな願いは、あの日からとっくに捨てていた。
もしかしたら、なんてことがこの世界で有り得るはずがない。
ここに転がるのは生と死。天国と地獄。100%と0%──
しかしもしここで咲穂が行かず、そして朱音が二度と帰ってこなかったらどうだろう。咲穂はまたあの地獄のような日々を送らなくてはならない。
絶対に戻ってくると約束し二度と帰ってこなかったあの人を、ただずっと待ち続けた日々。その孤独と喪失感は、痛いほど理解していた。
だから。白か黒しかないのなら。生か死しかないのなら。せめて。
「…私も行きます」
──せめて、誰かのために死にたかった。
朱音は驚いたように咲穂を見る。咲穂はその顔を見つめ、ぎこちなく微笑んで見せた。
「私だって朱音さんの部下なんですよ? それくらいの仕事は
本当は震えるほど怖い。ここでは身近な、しかしどこか遠いものだと感じていた死の香りが、
自分が怖いと思うものは死ではなく、独りぼっちになってしまうことだ、ということに。
「さ、早く飲まないと冷めちゃいますよ」
咲穂は明るくそう言って、紅茶と菓子をトレイに乗せる。湯気が立ち昇る。しかしあの甘い香りはしなかった。
「本当に行くの? あなたにはとても辛い選択になる」
朱音の声が背中から聞こえる。
「えぇ、独りになるのは嫌ですから」
振り向いて微笑むと、上司は目を見開いた。翡翠のように輝く瞳の中に、自分の寂しげな笑顔が浮かんでいる。朱音は咲穂に近づくと、その体躯をギュッと抱きしめた。暖かな温もりと、僅かな震えを感じ取る。
───そうか。怖くないわけないか。
「…大丈夫、何があっても私が守るわ」
微かな吐息とともに、朱音はきっぱりとそう言った。昔の記憶がまた煌く。
同じようなことをいつも掛けてくれる人がいた。私はあの人に、あの優しさに、どう返せば良かったか。
「…私にも守らせてください、朱音さんのこと」
気付けばそう声を漏らしていた。
もう守られ続けるのにはうんざりだ。そうやって大切なものを失って、自分の無力さを思い知る。針を胸で射抜かれるような
上司の腕に手を回し、そっと抱きすくめる。これから先待ち受けるのは、どうしても超えられぬ高い
果たして自分たちに超えられるだろうか。生きて帰ることは出来るだろうか。
「…絶対戻ってきましょう、ここが私たちの家なんだから」
最悪の可能性はいつだって、頭の片隅に染み付いていた。しかしそれだけが全てではない。自分には上司がいる。暖かな温もりがある。帰る場所がある。幸せを、感じて、掴んで、生きている。
咲穂はもう一度、微かな希望を信じてみようと思った。
二人で席につく。菓子を広げ紅茶を飲み交わす。苦い紅茶だ。気を取られていたお陰で最悪の味がする。咲穂はその苦味に顔を
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