四章:五、刑場
全ての光を奪い去る夜が訪れた。
刑場となる
「
青燕は一息に歩み寄った。
「これ、
翠春は口を噤む。
「間違ったことをしたらまたやり直せばいい。でも、命だけは取り替えしがつかないんだ。本当にやるの?」
青燕は彼の細い手首ごと本を握った。
「誰にやらされてるなら教えてほしい。まだ間に合うよ」
「今更無理だよ……」
「悪いことをしたら一緒に怒られようって言ったじゃないか」
青い双眸が月光を真っ直ぐに反射した。翠春は兄の手を振り払う。
「取り返しなんてつかないよ。母上に嫌われたら……」
「翠春!」
彼は踵を返して駆け出した。翠春の背は闇に溶けて見えなくなった。
夜闇は牢の中で更に濃くなる。
「兄上、普通に渡してほしい」
「筆と硯がほしいなんて、遺書でも書く気かよ」
包みを解く音を聞きながら紫釉は牢の前に腰を下ろす。
「ほしいものを言えとは言ったけど、そんなのを聞きたかったんじゃないぜ」
「何と言えばよかった?」
「牢屋の鍵」
「兄上も捕まるぞ」
「関係ないね。
檻から黄禁の微笑が漏れた。紫釉は大きく溜息をつく。
「なあ、黄禁。逃げちまえよ。牢獄だけじゃない。全部の責務からさ。俺たちは望んで皇子になった訳じゃない。生まれた場所を死に場所にする必要なんかないぜ。死ぬ勇気なんか捨てちまえ」
「……俺は兄上が思うより臆病だぞ」
掠れた声が響いた。
「紫玉のときもそうだ。俺は自分が死ぬより家族を看取る方が怖い。だから、いいんだ」
紫釉は懐から短剣を抜き、檻を強く打った。鋼の音ともに火花が散り、牢内を照らす。
紫釉は立ち上がり、地上へと続く階段を昇り出した。暫くして墨を擦る音が聞こえ、紫釉は足を止めた。
「そんな面のまま死なせるかよ」
東の空が白み出し、
「昨夜はお休みにならなかったのですね」
桶を手にした
紅運は冷たい水に顔を浸す。
「
水面に炎が揺らいだ。
「悲惨な面だな。医者でも呼ぶか」
「誰も呼ばない。これは俺たちだけの戦いだ。処刑を止めるぞ」
赤毛の男が肩を竦める。
「何だ?」
「
紅運の前髪から水滴が滴り、頬を流れ落ちる。首を振り、紅運は寝台から降りた。
入雲廟に皇子や皇妃らが集っていた。
廟から牢へ続く道には縄が張られ、衛兵らが剣を携えて黄禁の到着を待つ。
人集りの中、日光を受けて輝く鉄色の髪の親子がいた。花見に向かうかのように微笑む
紅運は唇を硬く結び、彼らの末端に並ぶ。
衛兵の肩の間から青い礼服がはみ出すのが見えた。
「青燕?」
「衛兵!」
「青の大魔……」
紅運が呟く間に入雲廟が崩れ落ちた。
「術のための陣がなければ、処刑は中止だよね」
呆気に取られる者たちに向かい、青燕は両手を差し出した。
「これで僕も逆賊だ。早く牢に繋げよ」
衛兵が狼狽しながら彼の手に縄をかける。江妃が膝から崩れ落ち、侍従が支えた。青燕は一瞬苦渋の表情を浮かべ、すぐに打ち消した。
兵士に連行される青燕が紅運の横を通り過ぎた。
「青燕……」
続く言葉が浮かばない。彼は目を閉じ、何も答えなかった。
「処刑は……」
先頭に立つ白雄が言葉を濁す。
「できるよ」
短く答えたのは翠春だった。
「場所を移せばいい。北の伏魔殿が空いてるよね。紅運が封印を解いたから」
常時の気弱さとは真逆の力強い口調に、紅運は眉間に皺を寄せた。
炎の気配が背後にある。
「何処だろうとやるべきことは変わらない」
紅運の答えに、微かな熱が波打った。
日輪は頂点まで登った。
皇帝の棺は既に運び出されている。警備の兵の配置を変え、縄の道は北の伏魔殿まで張り巡らされた。皇子たちは赤い楼門に見下ろされながら、黄禁の到着を待った。
石段の下から兵士が掲げる矛の飾り紐が覗く。
白雄でさえもが息を呑んだ。
口には枷を嵌め、後ろ手に縛められた黄禁は更に痩せ細っていた。
湿度の多い石牢で過ごした肌は所々赤紫になり、死装束に血が滲んでいる。自力では歩けないのか、石段を踏み外すたび両脇の兵が彼を支えた。
「
紫釉が歯を軋ませる。傍の
「夜通し文書を送りましたよ。ですか、間に合うかわかりません!」
「くそ……!」
石段を昇り終えた黄禁が皇族の前を進み、血と泥の足跡が点々と散る。歩みの先に、伏魔殿が聳えていた。
黄禁が兵に引き摺られ、殿の中へ消える。
白雄は張り詰めた空気を抜け、歪な門を潜った。翠春が後を追い、皇子皇妃らがそれに続く。
最後尾の紅運は石の尖塔を見上げた。かつて封印を解いて飛び込んだ場所だ。
––––今日、ここでもう一度禁を破る。
伏魔殿に以前、紅運が感じた熱と湿度はない。
代わりに燭台の粘質な炎が内部を照らし、重苦しい空気が充満していた。
狭い道を皇子たちが進むたび、土埃が落ちて烟る。皆沈黙し、靴底が石を擦る音のみが満ちた。
紅運の前を歩いていた橙志が足を止めた、最奥に到着したことがわかった。
闇に慣れた目を瞬かせると、異様な光景が広がっていた。
土に幾重にも陣が描かれ、九の碑石が置かれている。中央では黄金の棺が灯火を妖しく反射していた。
銀蓮が微笑が紅運の鼓膜を揺さぶった。
闇の中輝く陣の中央へ、兵が黄禁を押し出した。口枷を解かれた黄禁は辺りを見回す。
「青燕は……」
兵士が首を振った。
「お前のいた場所だ」
黄禁の虚な目に鋭い光が宿った。何か言う前に兵が矛の柄を振り下ろし、彼は倒れ伏した。
白雄は直立し、静かに宣言した。
「これより、貪食の儀を行います」
兵士が鐘を鳴らした。燭台に油が注がれ、紅炎が燃え盛る。
棺の蓋が独りでに震え出した。
苛むような鐘の音が絶えず鳴り、地に額をついた黄禁に一条の影が伸びる。棺からごぼ、と黒い水が溢れ出した。皇女の間から悲鳴が上った。
黒い水は蓋を押し上げて零れ、徐々に黄禁に迫る。
「罪人が完全に呑み込まれたら次の手順だ」
翠春は無表情に本を捲った。
「狻猊」
紅運は囁いた。
「化け物が出たら俺たちで殺すぞ。奴さえ消えれば処刑の意味はなくなる」
答えはなく、鐘の激音だけが耳朶を打つ。
「狻猊?」
地に触れた水が蒸発し、黒い靄となって立ち上った。黄禁が口を開く。その舌が墨でどす黒く染まっているのを靄が隠した。
棺の蓋が傾ぎ、先頭の白雄の顔を炎が照らした。
黄禁が舌を地につけた。墨が土に染みる。
銀蓮が息子の手を置いた。
「何か聞こえなくて?」
早くなる鐘の音に低い声が混じっている。黄禁の周囲に今までと違う無数の靄が湧き出した。
「まだ何かするつもりかしら。どうしましょうね?」
翠春は顔を硬らせた。
「あの馬鹿……」
飛び出そうとした紫釉の袖を妹の紫玉が掴む。
「兄さんまで死ぬつもり」
紫釉は低く唸り、足を引いた。
「狻猊、聞こえないのか!」
焦りから上ずった紅運の声に橙志が怪訝な目を向ける。
「答えろ!」
紅運の足元に赤い雫が落ちた。生温かい感触が唇を伝い、手を当てると血がついていた。
「え……」
紅運の鼻から大量の血が噴き出した。目が眩み、思わず膝をつく。霞む視界に炎が燦然と輝いていた。
「罪人の動きを止めろ」
翠春が命じ、兵士が矛を振り上げる。黄禁の首に振り下ろされる前に、刃がどろりと融解した。
鉄が溶けた飴のように滴る。兵士が取り落とした矛が、熱を帯びて赤銅色に変化していた。
辺りに動揺が走る。無言を貫いていた
「何かいる」
皇子たちの間に擦り切れた行者服を纏った男がいた。金眼が爛々と光り、真紅の髪が火花を散らす。足元には紅運が蹲っていた。
「あれは……」
翠春が声を震わせる。隣で銀蓮が目を細めた。
「何処かで会ったかしら」
「狻猊……何を……」
赤毛の男が牙を剥き出し、壮絶な笑みを浮かべた。
「二百年待ったぞ、皇帝! お前を殺す刻が来た!」
炎が爆ぜた。爆風が伏魔殿を浚い、靄が一瞬で蒸発する。碑石が薙ぎ倒され、地の陣を炎が潰した。
「赤の大魔が暴走したぞ!」
兵士が構えた武器が次々と溶ける。侍従が皇女たちを連れて元来た道へ向かおうとする。
「狻猊、やめろ……」
紅運は血塗れの手を伸ばした。狻猊が金の双眸を歪める。放たれた炎が掠める寸前、橙志が紅運を抱えて飛び退った。
混乱の中、白雄は唇を震わせた。
「処刑は……」
「赤の大魔を何とかして続けないと」
青ざめた翠春が叫ぶ。
「しかし……」
「中止です!」
逃げる者たちを押し退けて、伏魔殿の入り口から男が駆けて来た。髪を振り乱た烏用が一枚の羊皮紙を掲げる。
「東方からの使者が急遽来朝しました! 即刻中止してください!」
「遅いんだよ、ぼんくら。よくやった!」
紫釉が膝を打った。
白雄は汗を拭い、深く息を吸った。
「他国の使者に皇族の処刑を見せるなど言語道断、処刑は中止します」
白雄は棺の方へ向き直る。
炎と赤の大魔は消え去り、余燼だけが残っていた。気を失った黄禁を兵士たちが運び出す。棺の蓋は微動だにしない。白雄は硬く目を閉じた。
紅運が目を覚ましたのは、寝台の上だった。
鋭い痛みが頭を刺す。服が汗を吸って鉛のように重い。
「処刑はどうなったんだ……狻猊は……」
立ち上がろうとしたとき、西日の射す窓の向こうから兵士たちの声がした。
「黄禁殿下の処刑はどうなる」
「日を改めるんだろう。意識が戻らないことにはな」
「青燕殿下まで投獄されるなんて」
「あの方なら兄弟を見殺しにできないさ」
「それより、赤の大魔が暴れたというのは本当か」
紅運は窓枠の下に身を潜めた。
「皇子の間で亀裂が広がっているようだからな。紅運殿下も反逆の意志があったんじゃないか」
「まさか、第九皇子にできるかよ。大魔に操られたんだろう」
紅運は息を呑む。兵士たちの足音が遠ざかった。
「狻猊……」
夕陽より赤い影がふいに伸びた。
「暴走したふりをしたのか。俺に責が及ばないように」
狻猊は寝台の端に勢いよく座った。
「大変だったなあ、坊や。他人に相談しねえで勝手にやらかされたらどうなるかよくわかっただろ」
「だからって……」
紅運は深く項垂れ、前髪を掻き乱した。
「黄禁だけじゃなく青燕も助けないと。まだ何も解決してない……」
指の隙間から見える狻猊の瞳に獰猛な色は欠片もなかった。
「屠紅雷と同じ、か」
乾いた血が鼻に張りつき、息を吸うと痛んだ。
「今度こそ皆の力を借りなきゃな。俺ひとりじゃ何もできないことを忘れていた」
紅運は顔を上げた。
「狻猊、悪かった……ありがとう」
「冗談じゃねえ」
牙を剥き出した狻猊に、紅運は苦笑する。炎の色が寝台を染めた。
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