序章:二、面従腹背
水を打ったような沈黙が黄金の宮に満ちた。
「……呆れた遺言だ。父上は乱心か?」
「それは、本当に父上の遺言なの?」
「天子が即位の際賜る金印が押されている。間違いない」
紅運は目を伏せる。
――馬鹿らしい。死に怯えて狂気に陥ったか。その妄言ですら俺は勘定に入っていなかった。
九の大魔のひとつは既に地中深く封じられている。
代々の皇帝が眠る楼の背にひっそりと建てられた伏魔殿。天子すらも近づくことが禁止された石の廟に破国の炎魔と呼ばれた忌まわしい魔物が。
二百年前、在位した
「しかし、どうする? 皇帝の遺言は絶対。皇位継承者がそれに背けば首を刎ね、城郭に晒すのが掟だ」
再びの沈黙の中、
「その通りです。しかし、この遺言には刻限が記されていない」
皇太子は民に向ける慈悲の微笑みを兄弟に向ける。
「血で旗を染め、九つの頭を束ねるのであれば、兄弟と共に夷狄との戦に勝ち進み国をひとつにしろともとれます。信用に足る賢者に助言を求め、穏当な解釈が見つかるまで、服喪の間中は遺言を秘匿しましょう」
わずかながら玉麟殿に張り詰めた緊張が弛む。
「私は兄弟を信じています。恐怖にかられ、軽慮浅謀に走る者などいない。明日会談の場を設けるまではただ父を悼む、よろしいですね?」
黄金の宮に穏やかな声が反響した。
皇子たちが去り、最後に宮を出た紅運を呼び読める声があった。振り返ると黒勝が立っていた。
「散歩でもしないか。哀別の念はひとりで抱えるに耐えないだろう」
紅運は霧で烟る池の淵を進んでいく黒勝の少し後ろを歩いた。
「俺はいいが、そっちは忙しいんじゃないか」
「忙しいさ。父上が倒れてから、国民の戸籍の編纂と、諸侯の土地にかける税の計算は殆ど俺ひとりでやっていたからな。広大な国土と民を収めるのは楽じゃない。権力の大きさの裏返しでもあるが」
「そんな大仕事を任せられるなんて、信用されてたんだな」
何気なく見上げた黒勝の張りつめた横顔に紅運は戸惑った。
あてもなく進んでいるように見えた黒勝は、無人の楼閣の前で足を止めた。紅運は彼の肩越しに視線を上げる。深紅の門がそびえる皇帝の墓所だった。
「父上の遺言、どう思った?」
背を向けて後ろ手に組んだ兄の手は墨で汚れていた。
「どうもこうも、まともじゃないと思った」
「本当に?」
勢いよく振り返った黒勝の瞳は爛々と輝いていた。
「俺たち継承権下位の皇子が皇帝になれる機会だぞ。これは天啓だ」
紅運は詰め寄る兄の目に映る自分の顔が引き攣るのを見た。
「あんたまでいかれたか」
後退った紅運の手を黒勝が掴んだ。文官として筆だけを握っていた手とは思えない力だった。
「俺と組まないか」
「大魔もいない俺に何ができると……」
「いるじゃないか、ここに!」
黒勝は引き攣った笑い声をあげた。
「誰も解けない封印なら態々立入を禁ずる必要はない。今でも赤の大魔は出せるということだ。考えたことはないか?」
紅運は身を竦める。大魔を欲したことはあっても、赤の大魔を解こうと思ったことは一度もなかった。幼少期から刷り込まれた恐れは変わらず、伏魔殿に近づくことも無意識に遠ざけていた。
「ない。第一、俺に使いこなせる訳ないだろ」
「大魔は皇子に従うものだ。あれがいれば、兄弟と同格どころか国すらも思うがままだぞ」
「本当に殺し合う気か!」
黒勝の目は爛々と輝いていた。
「……大魔を使えるようになったら、俺も敵だろう。最後は殺す気か」
不意を打たれた黒勝が口を噤む。その隙に紅運は手を振り払った。
「お前は同志だ。父の死に悲しまないどころか喜んだだろう!」
「今の話は誰にもしない。その代わり、俺は何もしない」
胸のざわつきから逃げるように、紅運は背を向けて歩き出した。
「皇帝になりたくないのか!」
上ずった声が降りかかる。紅運は楼の影から逃げるように駆け出した。
夕刻、自室に戻った紅運に年老いた乳母の琴児が微笑みかけた。
「お疲れでしょう。お茶の準備をいたしました」
紅運は平静を装って頷いた。青磁の茶器に蓮の葉茶が注がれる。温かい茶器を受け取ったとき、頭の中で声が反響した。
――皇帝になりたくないのか。
考えないようにしていた。それは文官の道を選んだ黒勝も同じではなかったか。自分と違い、政治の才に恵まれた兄の燻る野心に眩暈がした。
乳母の
「本日はもうお休みの準備をいたしましょうか」
「疲れてないさ。何もしてないんだ」
「絵をお描きになっていたのでは?」
「無駄だったな。死人に絵を送っても仕方ない」
紅運は自嘲気味に笑って絵筆と巻紙を机に置いた。琴児は隅で汚れた紙を広げて目を細めた。
「馬ですか、お上手ですね」
「わかってくれるのは琴児だけだ」
苦笑を返して再び表情を曇らせた紅運の背に、琴児が手を置いた。
「胸中はお察しします」
「辛くなんてない。一度も俺に見向きもしなかった父親だ。逆に、俺が死んでも父上は悲しまなかっただろう」
「そんなことはありませんよ。陛下は紅運様の御母堂をどの妃よりも深く愛されていました。あの方に瓜二つの貴方も」
「ただの下女から美貌だけで皇妃になった母に、か」
「陛下は美姫など見慣れています。紅運様を生まれてすぐ儚くなるまで寵愛を受けた由縁はそれだけではありませんよ」
「それで、俺は陛下から最愛の妻を奪った仇になった訳だ」
紅運は描き途中の馬を見下ろした。
紅運がただ一度絵を贈ったときだけ、皇帝が一瞬目元を緩ませたような気がした。
微かに嘆息した記憶の中の父の背の先には、紅運の母を描いた水墨画が飾られていた。
窓外の池が王宮を映している。水中の都に手を伸ばしても触れられないように、目には見えても決して届かない玉座に届くと信じている者もいる。
「いっそ皇子じゃなければ」
呟きかけて紅運は首を振った。
「いや、市井で生まれていたらとっくに橋の下にでも捨てられていたな。俺には何もないんだ。俺は白雄や橙志のような武の才も、黒勝のような文の才もない。黄禁のような妖術どころか、青燕のような善心すら持ってないんだ」
「違います」
紅運は顔を上げた。琴児が衣の袖を皺の寄った手で握りしめていた。
「紅運様はお忘れかもしれませんが、幼い頃私の足をご覧になったことがおありでしょう」
老いた乳母の爪先は長い裾に覆われて見えない。
「私の生まれた頃にはまだ子女に纏足をしていました。とうに廃れた習わしですが、私の足指は今も折れ曲がって五寸もありません」
「……それがどうした」
「それをご覧になった紅運様は、いつか自分が――」
琴児の声を遮って銅鑼の音が響いた。
典雅さはまるでなく、けたたましく打ち鳴らされる鋼は有事の報せだった。紅運は椅子を蹴倒して窓枠に縋りついた。
「玉麟殿、炎上! 繰り返す! 玉麟殿、炎上! 既に数多の衛兵が殺された! 禁軍は疾く後宮に残る者を救い、下手人を――」
言葉は不穏に途切れた。
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