序章:四、星火燎原

 火焔が夜空を赤く染めた。



 城郭の北から上がった炎は天を突き、獣の咆哮を上げる。

「まさか……」

 白雄はくゆうは嘶く空を見上げた。



 ***



 朱の楼門に火傷を負った老婆が倒れていた。

 衣は焦げつき、爛れた腕から血が流れている。


紅運こううんの乳母か……」


 黒勝こくしょうは溜息をついた。

 辺りに黒煙が充満する。背後に侍るのは首が捻れ四肢が曲げた、黒い帷子の亡者の軍だ。

 己の名前につけられた色が今、宮廷に満ちている。


 喧騒が近い。

「誘導されているな」

 龍墓楼りゅうぼろうから見る廷内は楔形に燃え、切っ先は黒勝に向いていた。

「どうせもう戻れんのだ」

 黒勝は冷えた石段を上がり始めた。



 死者の足音が付き従い、まだ熱を帯びていない夜風が冷たく纏わりつく。

 息遣いと四つ脚の這う音に視線をやると、山犬に似た魔物が黒勝に額を寄せた。殺戮を好む睚眦がいさいは漂う死臭に満足げに鼻を鳴らす。



 炎も松明の灯りも届かない暗闇を、同じ色の魔物を連れて進む。

 頂上が見え出したとき、足元に一条の光が射した。


 ぽつぽつと赤い雨のように光の点が広がる。

 睚眦が牙を剥き出した。

 眩い光が目を焼き、黒勝は顔を上げた。



 石段の上に、炎が立っていた。


「紅運か……?」

 煤にまみれた弟は銅剣を片手に、光輝燦然たる紅炎を背にし、深紅の髪の行者を従えていた。



 ***


 紅運は声を漏らした。

「黒勝……」

 睚眦は紅運を一瞥し、獲物を狩る許しを請うように主に鼻を押し付けた。黒犬が牙を剥き出した瞬間、一陣の風の如く炎が駆け抜けた。

 突如現れた赤壁に黒勝と獣がたじろぐ。


 紅運の背後で、光輝燦然たる赤髪を風に躍らせる、金眼の男が笑った。


「殺されかけてるみてえだなあ……紅運、お前の名か?」

 紅運の耳元で男が犬歯を覗かせる。男の呼気から熱が漂った。

「紅の字ってことは九男だな。継承権は最下位。死んでも玉座が回って来ねえ。違うか?」

「俺の名はいい。俺がお前の主だ。お前の名を言え」

 赤毛の男が金の双眸を細めた。


狻猊さんげい

 熱が膨れ上がり、赤光が閃いた。

 黒勝を囲む兵の帷子が黒さを増す。一瞬で、亡者の群れが炭化し、風に散った。紅運は目を疑う。炎を放った瞬間すら見えなかった。


「何だ、そいつは……」

 黒勝が震える声で呟く。黒い山犬が石段を駆け上がって吼えた。


「睚眦じゃねえか」

 狻猊は紅運の肩に顎を載せるようにして囁く。

「お前の兄弟か? 睚眦に睨まれたな。ありゃあもう駄目だ。奴に悪心を見抜かれたら、みんな唆されてイカれちまうんだ」

 黒勝と妖魔が同時に唸った。


 紅運は沈鬱に目を伏せた。

「そういうことか……あんたなら上手い手はいくらでも思いつくだろうに、何でこんな短慮に走ったのか不思議だった。兄弟を殺そうかと思ったときから、あんたは睚眦の奴隷だったんだな」

 黒勝の瞳が嵐の中の湖面のように震える。

「奴の本当の権能すらわかってなかったんじゃないか。知ってたらもっと周到にやったはずだろ」

 紅運は火膨れの潰れた手で銅剣の柄を握った。

「諦めろ。じきに追手が来る。妖魔のせいだとわかれば死罪には……」


 咆哮が紅運の声を掻き消した。

 全身の毛を逆立てる睚眦の前に狻猊が立ちはだかる。二柱の妖魔を挟み、黒勝は乾いた笑みを浮かべた。


青燕せいえんの真似か? 慈悲深い振りはやめろ。お前は俺を殺すのが怖いだけだ。無能が露呈するのを恐れて、何をするにも怯えていたからな」

 紅運は何も言わず視線を下げた。


「紅運、俺を見下ろすな!」

 地面が爆ぜた。

 土煙を巻き上げ、睚眦が突進する。

 赤い軌道が閃き、黒い巨躯が弾かれた。狻猊の蹴撃が黒の大魔を正面から跳ね飛ばしていた。遥か先に叩きつけられた睚眦の爪痕が地に深い線を刻む。


 紅運は鈍痛の走った胸を押さえた。

 疲労が目を霞ませ、汗が滴る。妖魔を使役するには己の体力を分け与えるのだと聞いたことがあった。


 黒勝が歯を軋ませ、睚眦が起き上がる。

 紅運は深く息を吸った。

「見下せるわけないだろ!」

 黒勝の肩が小さく震えた。

「無能な俺が優秀なあんたをどう見下せっていうんだ!」


 痛む肺に空気を取り込み、喉を抑えて紅運は声を振り絞る。

「ずっと羨ましかった……いや、違うな。自分が惨めだから言わなかったが……俺には目もくれない父上が政の采配を訪ね、兄弟皆が信頼する、あんたを尊敬していた」

 黒勝が何か言いかけ、睚眦の呻きがそれを掻き消した。

「黒勝、それじゃ足りないのか」

「足りない」

 紅運の視線の先の兄は皮肉な笑みを浮かべた。


「お前は自分を無能と言い、兄弟に敬意を向ける。その通りだ。才なき者は宮廷にいる価値がない。お前自身もそう思ってるんじゃないか? お前も結局腐った宮廷の一部分だ」

 虚ろを突かれた紅運に、黒勝は憔悴した目を向ける。

「俺には白雄はくゆうよりも政の才がある。だが、皇帝になれない。奴が長子で俺が七男だからだ。実力主義の宮廷で何故そんなことが? わからないだろう。紅運。兄弟の誰にも、皇帝にもわからない」

「俺はただ……あんたも他の誰も死ぬ必要なんてないと……」


 紅運はかぶりを振った。

 黒勝の目が虚ろに光っている。紅運は汗と膿が火傷に染みる手で銅剣を握り、震える腕で黒い獣に切っ先を向けた。

「狻猊、あの化け物を殺せ!」



 赤毛の男が獰猛な笑みを浮かべた。

 黒の大魔が地を跳躍する瞬間、男が傅くように屈み込み、毛の一片まで炎を纏った獅子に姿を変えた。


 身を躍らせた睚眦の腹が闇のように頭上に広がる。

 獅子はただ首をもたげ、啼いた。

 走る光が全てを紅く染める。


 凝縮された炎が妖魔の胸を穿っていた。

 睚眦は細い煙を一筋上げる己の胸の穴を見下ろす。穴の縁を赤光が丸く走り、妖魔は火に包まれた。


 紅運は炎の照り返しを頰に受けながら、足を前に進めた。

 燃え盛る大魔を身じろぎもせず見つめていた黒勝が顔を上げる。

「あんたの言う通りだ。あんたがどれだけひとを殺していても、俺はあんたを殺すのが怖い……だから、投降してくれないか」

 紅運は携えた銅剣を下げた。黒勝は唇を震わせた。


「紅運、俺は……」

 黒勝が軽く背中を叩かれたように身を反らし、どさりと倒れ込んだ。

「黒勝!」

 紅運が掴んだ肩は金属のように冷え切っていた。睚眦が焦げて癒着した目蓋を開き、絶命した黒勝を凝視している。


「狻猊!」

 獅子が再び吠え、睚眦を消炭に変えた。火の粉を纏ったまま風に巻き上げられていく残骸を見下ろし、紅運は目を閉じた。



 いくつもの足音が響いた。蛇矛を携えた白雄、後ろの橙志とうしと青燕が現れる。皇子たちは倒れた黒勝と、炭の塊と、そして、紅運を見た。

「それは……!」

 毛の一本まで炎を纏った獅子に皇子たちは言葉を失う。


 紅運が兄弟の脇を通り抜けたとき、青燕が声を上げた。

「待って」

 彼は眉を寄せ、紅運を見つめた。

「大丈夫……じゃないよね」

「青燕、琴児を頼む。助けてほしい」

 それだけ告げ、紅運は足を引きずって歩き出した。


 石段の遥か下、城郭は未だ燃えている。

「狻猊、炎を消すことはできるか」

「できねえよ。俺は燃やすだけだ」

 炎の獅子は熱の名残りに喉を鳴らした。


「俺のことは知ってんだろ。お前も破壊を望んでる。違うか?」

 炎の中心のような金の目が楽しげに見える。試されている。


 ――俺には何もできない。だから、考えろ。兄たちならどうするか。

 水の権能を持つ青燕は考えるまでもない。

 橙志は燃える宮の急所を探し、白雄がそれを崩して火を鎮めた。

 風生火。黄禁おうきんが口にしていた万物が持つ性質の相関だ。風は火を生かす。

 物を燃やし尽くした炎を新たな場所へ運ぶからだ。火は燃えるものがなければ燃えられない。


「狻猊、全部燃やせ。燃えるものがなくなるほど、風すらも燃やして消し飛ばせ!」


 狻猊は男の声で笑い、咆哮を上げた。

 灼熱の閃光が上空を走り、宮殿が爆風に煽られ、池の水が干上がる。

 一瞬の燃焼で酸素を奪われた火は周囲の官吏や女官を捕える間もなく、最期の輝きを残して消え去った。


 紅運は安堵の溜息をつき、その場に倒れ伏した。指先にすら力が入らない。妖魔を使役した代償で精も魂も尽き果てた。深紅の髪の男が仰向けになった紅運の横に座った。

「お前は俺を解いたんだ。死罪どころじゃ済まないぜ」

 月の代わりに金色の瞳が紅運を見下ろす。


「どうする。国も王宮も兄弟も全部燃やすか? そうしたら、最後に残ったお前が皇帝だ。末端のお前にはちょうどいいか?」

「それじゃ意味がない。せっかく守り抜いたんだ。そうだ、俺にも守れたんだ……」


 紅運は震える手を空に翳す。

 兄と同じように戦えるところを見せたかった父はもういない。悲しくなかったのは、それ以上に腹立たしかったからだと気づいた。


「もう二度と見せつけられないなら、俺が同じ高みまで行くしかない」

 狻猊が眉を吊り上げる。


「それに、約束したんだ。宮殿で女官が馬に乗れるようにすると……」

 赤の大魔は虚を突かれたように黙り、仰け反って笑い声を上げた。

「良君でも暴君でもなく、狂気の皇子とはな」


 紅運は哄笑を聞きながら意識を手放した。



 水の中の宮はもうなく、干上がった池に炎の痕が泡に似た膨らみを残していた。

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