一章:一、風前灯火
目を開くと、
部屋に射す光を等間隔の影が遮っていた。窓に鉄格子があるのだろう。
がしゃりと音がして手首の重みに気づく。枷が嵌められていた。
狻猊の姿は見当たらない。
ふたりの兵士が入室する。
彼らは一礼し、慎重だが素早い手つきで轡を噛ませ、手枷に鎖を繋いだ。
紅運は両脇を抱えられ、部屋を後にした。
庭ではまだ煙が上がり、焼けた宮が無残な姿を晒していた。
南側へ進むにつれ、火の手を免れた廷内は普段の様相を成す。
大門を抜け、紋様を漆で盛り上げ金箔を貼った柱が天井を押し上げる広い宮殿が現れた。
兵士は黒曜石の床に紅運を座らせる。跪いた紅運を四人の兄が見下ろしていた。
「紅運!」
駆け寄った
「罪人みたいに拘束することないじゃないか!」
「そうだぞ」
目の下の青みを一層濃くした
「妖魔を使うにはただ念じればよい。いくら縛めようと、狻猊は瞬く間に俺たちを焼き殺せるぞ」
「お前はもう少し言葉を選べ」
「ここは
衣と髪を整え、昨夜の惨劇の片鱗すら見せない長兄を紅運は見上げた。
「まず貴方の奮励に感謝と敬意を。琴児は峠を越え、今眠っています。件の動乱は小火とし、
死体が晒され、国賊と石を投げられることはない。
事を穏当に収めるためだけではなく、兄たちの温情でもあるのだろう。
しかし、黒勝の苦渋に満ちた述懐はもう誰にも知られることはない。
紅運は轡の奥で唸った。
「目下の課題は貴方です」
白雄は水晶のような瞳で弟を真っ直ぐに見下ろした。
「天子の立入をも禁じる伏魔殿から赤の大魔を解き放った。死罪も免れぬ重罪です。しかし、今は裁きを下す皇帝も刑部の長もいない」
赤と白の紙箋が鼻先に垂れた。
「よって、我々の投票で処遇を決めます。極刑を是とするならば白、否ならば赤を」
壺を携えた官吏が皇子たちから紙箋を受けていく。
その景色が熱で揺らぎ、火花の爆ぜる音がした。
「風前の灯火だな、紅運」
耳朶を舐るような低い声。
––––
「奴らを脅すのも殺すのは簡単だ。だが、それじゃ意味がない。奴らの意思で俺の主を救うならば生かす。殺すなら俺も奴らを焼き殺す」
大魔は使役する者にしか見えず、命じられ権能を顕にするときのみ現れる。
炎熱の魔物が爪先が喉元にかけられたことを兄たちが知る由はない。
声も出せず叫ぶ紅運の前で青磁の壺が返された。
舞い落ちた紙箋は赤二枚、白二枚。
「同数、か」
「何でふたりも……」
青燕は残った白の紙箋を握る手に力を込めた。
「紅運は皆を助けてくれたじゃないか! 彼がいなきゃ被害はもっと増えてた。僕たちも死んでたかもしれないのに!」
「被害は増えようといずれ必ず収まった。俺たちの誰かが死のうと残った者が後を継ぐ。大魔を解く必要はない。事によって件の遺言の後に……」
橙志が言葉を切った。
「毒を持って毒を制す。皇帝を失い地脈が乱れる今、最悪の大魔は最大の抑止力になる。俺は反対だぞ。弟殺しは嫌だしな」
黄禁が紙箋を弄ぶうちに黒曜の床が熱を帯びていく。
「私は、賛成です」
白雄の澄んだ声が響いた。
「紅運が宮廷を救ったのは確か。ですが、私は更により多くを、即ちこの国の民を救うべきだと考えます。赤の大魔の主を生かしておくことはそれに反する」
手の甲に浮いた筋が小さく跳ねた。
紅運の顎を唾液が伝い、瞬く間に蒸発したとこに気づく者はない。
金の柱を抜けて駆けつけた官吏が白雄に傅いた。
「第八皇子・
舞い落ちた一片の紙箋は白だった。
「三対二……」
白雄は目を伏せる。陽炎が床面を這った。
「待ってよ、本当にこんな決め方でいいのか!」
青燕の叫びをよそに、室温が上がり出す。
兄たちの目に必死で首を振る紅運の様は命乞いにしか映らない。
「お前だけ逝かせる気はない」
橙志は腕を組み、正面を見据えたまま言った。
「俺が早く軍を動かせば防げた事態だ。責は俺にもある。全て片付けた暁には己が首も刎ねる。地獄で待て」
「おかしいよ、ふたりとも死ぬ必要なんてない!」
紅運の全身に汗が噴き出す。部屋の奥の御簾が熱で軋み、黄禁が周囲を見回した。
「部屋が暑くはないか?」
「今そんな話はいいだろ!」
「違う。これは……」
唾液で轡が落ち、紅運の口に熱風が流れ込む。
––––皆、死ぬぞ。
喉を震わせかけた言葉は、涼やかな声に遮られた。
「私が赤を入れれば同数かな?」
全員の視線が声の方を向く。
切れ長の瞳、高い鼻梁と唇までの陶器のような曲線。皇太子によく似た穏やかな面差しは、老人じみた総白髪が不気味な印象に変えていた。
「
白雄が呟く。
「やあ、私がいない間に大変だったようだね」
紅運は汗と唾液に塗れた顔を上げた。立ち込めた熱気が徐々に鎮まる。
「これは皇子の会合だ。お前は自ら臣籍降下を申し出たはずだろう」
睨む橙志に藍栄は軽薄な笑みを返した。
「すっかり兄上と呼んでくれなくなったね、橙志。その通りだが、父上が最期まで受け入れなかったのさ。私は結局第二皇子のままだよ」
藍栄は白雄の手を取り、自分の拳を重ねる。
開かれた手には汗でふやけた赤の紙箋があった。
白雄は暗然たる息をついた。
「事態は急を要します。同数では決着がつかない。それとも
「決着ならついたじゃないか。四対三で処刑は否だ。何故って、彼も皇子だからね」
藍栄は水を被ったように汗で濡れた紅運を指した。
「まさか自殺を望んではいないだろう?」
錦虎殿に沈黙が染み出す。
「私とて赤の大魔の脅威は聞き及んでいるさ。でも、ひとも魔も挽回の機会は与えられるべきじゃないかな」
藍栄は指を鳴らす。
「父上が崩御し、抑えられていた各地の妖魔が再び動き出した。昨夜の小火と時を同じくして、城下の墓地で墓守の一家が惨殺されたよ。皇子として見過ごす訳にはいかない」
白雄は眉をわずかに顰めた。
「その妖魔を討伐すれば民草を守った神獣として認めろ、ということですか」
「ご明察」
藍栄は笑みを崩さなかった。
白雄は長考の末、背筋を正した。
「紅運の縛を解いてください」
兵士が紅運を立たせ、手枷の錠を外す。青燕の安堵の溜息が細く響いた。
白雄は後ろ手に指を組み、宮の奥へ歩む。藍栄はその後を進んだ。
外からの光が作る刀身に似た影の中で足を止め、白雄は振り返った。
「全て計算済みですか」
「まさか。私も大概焦ったよ。何とか間に合ったけれどね」
藍栄は白髪の下の眦を細める。
「助かりました。––––迷っていたのです。皇子として処刑すべきでした。しかし、兄としてはそうすべきではなかった」
「まずは“べき”というのをやめるところからかな」
白雄は暗がりの中で俯いた。
紅運は錦虎殿を後にした。
手首にはまだ縛の感触がある。視界の隅で紅炎のような髪が揺れた。
「狻猊、殺そうとしたな」
「当たり前だろ」
赤毛の行者が犬歯を覗かせる。
「王宮を救った勇士の墓上に建つ国なんぞ俺が守ると思うか? 俺が従うのは国じゃなくお前だ。俺の気が変わるまでな」
紅運は赤眼で妖魔を睨んだ。
「また封印されたいのか」
狻猊が嘲笑を漏らしたとき、紅運の肩を叩く手があった。
「待たせたね」
藍栄が微笑みかける。陽炎を残して狻猊が消えた。
「募る話は道中にしよう。何分急がないとまずそうだ」
答える間もなく城門の方へ引きずられ、紅運は転びかけながら声を張り上げる。
「急ぐってどこに」
「もちろん街だよ。都を脅かす妖魔退治さ。向かうは羅城の北の墓地。敵は死体から出る瘴気を集めた怨霊––––
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