一章:二、陰摩羅鬼

 城郭とは王宮とその防壁だけを指す語ではない。

 市から田畑、墓地までも有する巨大な都、それらを囲む羅城全ての意としても使われる。


 門を抜け、広大無辺に続く大路を進めばすぐ、昼夜問わず商人が行き来する市場に辿り着く。



 まるで音と色の洪水だ。

 果実から骨董品まで色とりどりの商店が犇めき、油の匂いの湯気が全てを霞ませている。

 牛車の緩慢な歩みを子どもが追い立て、物売りたちの声が喧騒に拍車をかけた。



「喪に服してないのか……」

 紅運こううんは初めて見る市場に呆然と呟いた。藍栄らんえいが微笑む。

「白雄が箝口令を敷いてるのさ。皇帝崩御の後、次代が決まらないとなると民が怪しむだろう? 父上は病床に伏していることになってるんだ」

 商店の軒先には売物の魚や饅頭を模した提灯が揺れていた。


 藍染の袍に矢筒と弓を携えた藍栄を商人が呼び止める。

「いい絹が入ったぞ。垂領でも仕立てるかい?」

「今度にするよ、取っといてくれ」

「何だ弓矢なんか持って。今日の獲物は御婦人じゃないのか」

「人聞きが悪いな」

 皇子と下民のやり取りとは思えなかった。笑いながら手を振り返す様は商家の放蕩息子のようだ。言葉を失う紅運を藍栄が振り返る。


「市井を訪れたことは?」

 紅運は首を横に振った。

「では、存分に見て回ろう。楽しいよ、私はこれに生かされてる」

 歩き出した藍栄の背が雑踏に飲まれて消えかける。


 追おうとした紅運の視界を赤髪が霞めた。

狻猊さんげい!」

 紅運は惨劇の予感に青ざめたが、男は金の瞳で市場を見回しただけだった。視線は食堂の軒に垂れる子どもの背丈ほどの魚に注がれていた。

「気になるのか……?」

「あの店は何だ。窓も屋根も様式が妙だし、店主の肌も死人みてえだ」

「俺も詳しくないが、たぶん西から来た商人の店だろう」

「天子の都に異邦人が住みついてんのかよ。考えられねえな」

 狻猊は居心地悪そうに吐き捨て、再び辺りを見た。

「あっちで売ってるのは何だ?」

「銀細工だろうな。数年前銀山が見つかって……」

「大門の近くの酒楼は? 都の顔だった老舗がねえぞ」

「詳しくないって言ってるだろ」


 初めての市に戸惑う子どものような様子に紅運は思わず苦笑した。

「何だよ」

「いや、さっきの店は魚が気になったのかと……」

「獅子と猫は違えぞ」

 狻猊は怒るでもなく憮然と呟いた。

「何処も変わってやがる。二百年前と大違いだ」

「封印される前か。昔の主と市場に来たことがあるのか?」


 何の気なしに尋ねた紅運の頬を熱風が掠めた。炎の色の髪が覆いかぶさるように広がる。金眼には宮殿を焼いたときの凶暴さが戻っていた。

「一度しか忠告しねえぞ。俺に前の主のことを聞いたら殺す」

 狻猊は陽炎となって消えた。


 紅運が呆然と立ち尽くしていると、藍栄の姿が見えた。彼は両手に湯気を立てる竹筒と笹葉の包みを抱えていた。

「昨夜から何も食べてないだろ?」

 押し付けられた筒からは茶の香りが漂い、笹の包みを解くと蒸した饅頭が現れた。紅運は温もりが染みる手の平を見下ろした。

「普段から市井の物を食べているのか。毒見もいないのに……」

「入ってないさ」

 藍栄は饅頭をひと口齧って見せた。紅運は諦めて茶を啜る。


 赤提灯が湯気の中で揺らめく市場は騒がしいがひどく長閑でもあった。

「小さい頃から食と毒は隣合わせでね。お陰で大抵は見抜ける」

 藍栄は事も無さげに言った。

「白雄と私は双子でね。皇太子がふたりじゃ都合が悪い。物心ついた頃から常に刺客の影はあったよ。この髪もそのせいだ」

「だから、臣籍降下を?」

「そう。白雄には重責を押しつけて申し訳なく思ってるよ」

「恨んでないのか?」

「恨む余地などないさ」

 紅運は銀細工師が並べる簪の音を聞きながら羊肉の饅頭を齧った。

「恨みがないにしても、俺を助ける義理もないだろう」

「弟だからじゃ駄目かい」

「またそれか……借りは返せないぞ」

「充分さ。これ以上兄弟が減るのはごめんだ」

 壺を積んだ荷車を押す商人が前を横切る。


「黒勝は目利きでね。私が質屋で珍品を買うたびに呆れながら真贋を見てくれたんだ。次会うときにも鑑定を頼んでいたんだが、忘れられてしまったようだね」

 紅運は俯いた。藍栄は慰めるように肩を叩いて歩調を早めた。

「思い出話は仕事を片づけてからにしよう。行こうか」



 目抜き通りから郊外の林道に入るにつれ、鬱蒼と茂る黒い木々が放つ湿気と冷気が死人の肌のように纏わりつく。

「この先に例の妖魔がいるのか」

「ああ、墓地にね。魔物は大魔たちがいる宮殿には近づかない。都から離れた、こういう暗い場所によく現れる」

 路肩に苔むした墓石が散らばっていた。石自体はまだ新しく、歳月以外の何かが砕いたらしい。


陰摩羅鬼おんもらき、弔われなかった死者の気が淀んで生まれる妖魔だ」

「民は葬送をおざなりにしていると?」

「いるじゃないか。未だ安息を得ていない死者が」

 紅運は息を呑む。錦虎殿の奥に黒ずんだ長箱が見えた。あれは焼け残った皇帝の棺ではなかったか。

「龍久国は荒ぶる龍脈の上にある。それを押さえる皇帝不在の今は地獄の蓋がないのと同じさ。民草は騙せても妖魔はそうはいかないらしい」


 藍栄は弓を手に取った。千段巻の麻糸に塗った漆の上から装飾を重ね、細い籐で補強した重籐の弓だった。

「まだ何もいないが……」

「いや、いるさ。私はとても目が良くてね」


 疾風が走り、藍栄の足元にごとりと硬いものが落ちる。

 矢を放つ瞬間すら見えなかった。紅運は嘆息しながら足元に視線をやって思わず呻く。落ちていたのは人頭だった。

「陰摩羅鬼とはこれか?」

「これは飛頭蛮。死体の胴から離れて飛ぶ生首さ。魔の中じゃ雑兵だ」

 藍栄は矢筒から新たな一矢を取る。


「敵は多いほど私に有利だ。藍の大魔は眺望を好む。来い、螭吻」

 藍栄が目を閉じると、藍色の釉薬を塗ったような光沢を持つ鯨が現れた。主の開眼と共に、鯨の体表の傷が無数の目となった。


 三条の雷光が奔った。矢は見えない妖魔を正確に撃ち落とした。断末魔の呻きと風切り音、肉が潰れる音が林に響く。藍栄が振り向き、紅運に弓を向けた。避ける間もなく矢が紅運の肩を掠め、背後の幹が軋む。

「失礼」

 後ろから奇襲を狙った飛頭蛮が木に磔になっていた。風に混じる甲高い鳴き声に藍栄が眉を顰める。

「向こうが本命のようだね」

 駆け出した藍栄の後を追い、林を抜けた紅運に咆声が振りかかる。


 開けた墓地の中央、弦に似た化鳥が羽を広げていた。漆黒の羽の中、双眸だけが赤い。鋭い嘴には死人の髪が蔦のように絡んでいた。ふたりの皇子を見留め、陰摩羅鬼は嗜虐の笑みで口先を歪めた。

「私が奴を追い込む。とどめを頼めるかい?」

 狼狽える紅運の肩を藍栄が押す。

「大丈夫。妖魔も大魔も力の根源は同じ龍脈だ。妖魔に有利な場所ほど私たちにも有利なんだよ」

 紅運は先ほどの狻猊の形相を浮かべつつ、意を決して呼んだ。


「来い」

 墓地の風景が歪み、狻猊が降り立った。

 紅運は獅子の横面を盗み見たが表情は読めなかった。

 螭吻の体表の瞳が瞬き、藍栄が豪速で放った矢が墓石を穿つ。垂直の射撃が化鳥の飛翔を阻んだ。速度と精度だけではない。着地点を予測して打ち、飛躍も反撃もさせない射撃だ。藍栄は袋小路の鼠のように妖魔を追い詰めていく。

 狻猊が唸った。

「手柄だけは俺たちに譲ろうってか。いけ好かねえ」


 陰摩羅鬼は最奥の土壙墓へ誘導されている。紅運は狻猊の背に飛び乗った。燃える毛皮は主だけを焼かない。

 ––––下手を打てば邪魔になるだけだ。藍栄の矢よりも速くなければ。

 記憶の中の火が爆ぜる。橙志から剣の稽古を受けていた頃、一度見た異邦の武器があった。火薬と呼ばれた礫は爆発と燃焼で上空まで火花を散らした。


「行け!」

 炎の推進力で加速した狻猊は火矢の如く飛んだ。大地に黒い轍が残り、苔が一瞬で枯れ果てる。敵は既に眼前にいた。


「吼えろ!」

 短い咆哮が熱波として飛んだ。その瞬間、陰摩羅鬼の嘴が紅運を指した。空中で身を捩った狻猊の横合いを轟音と爆炎が薙ぎ払った。狻猊は距離をとって着地する。土煙の中で化鳥が笑っていた。事態が飲み込めない紅運の横で藍栄が呟く。

「死体の瘴気に引火したのか……」


 紅運は残響に鼓膜を苛まれながら言葉を失った。

 最強の妖魔の炎が通じない。

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