一章:三、始吾心巳許之

 紅運こううんが幼い頃、都で病が流行り、白雄はくゆうに伴われて市井へ慰問に訪れたことがあった。


 地に膝をつき病人の手を握る皇太子に涙する民の肩越しに、炎を見た。

 雨雲が滲む空の下、ぽつりと浮かぶ青い光。死者の妄念が形を持ったような輝きに紅運は怯えた。

 帰りの輿の中でそれを口にすると、骸が発する気は風に触れて火を生むことがあるのだと長兄は言った。


 亡者から生まれた化鳥の嘴から、蒼炎が溢れている。



 皇子たちの虚をついて陰摩羅鬼おんもらきの翼がはためいた。

 藍栄らんえいが咄嗟に放った一矢が乱気流に砕かれる。剪刀じみた嘴が紅運の頭上に迫っていた。

 赤光が過ぎる。妖魔の嘴は紅運の前に出た赤毛の男の心臓を貫いた。


狻猊さんげい!」

 背を貫通した嘴の先端に鮮血ではなく、煙が絡みつく。

「炎に急所があるかよ」

 瞬く間に火が広がった。

 焼かれる化鳥は絶叫しながら、狻猊の胸を抉り抜いて逃げる。元の黒と焦げ跡が混じる身を震わせ、妖魔が慟哭した。

 爆風が墓地を震撼させ、林に隠れていた鳥が一斉に飛び立つ。


「今ので仕留められないのか」

 炎熱か焦りか、藍栄の頬を汗が伝う。全身から噴煙を上げながら化鳥は立っている。狻猊の胸の風穴を炎が埋め、跡形もなく消した。

「どうする、紅運? 火力を上げれば消炭にできるぜ」

「駄目だ。爆発したら街にも被害が及ぶ。それに藍栄を巻き込むだろ」

「競争相手が減っていいじゃねえか」

 狻猊がにじり寄る。

「俺は皇子が嫌いなんだ。国のためと嘯いて自分も兄弟も平気で殺す。手前らの首には全てに替わる価値があると思ってるからな。気に入らねえよ。野良犬みてえに焼き殺して思い知らせてやるのもいいだろ」


 藍栄が小さく笑った。

「優しい妖魔を持ったね」

「どこが……」

 紅運だけでなく呆気にとられた狻猊を横目に、藍栄は矢を抜いた。

「私も君たちも死なせないよ。この世には楽しみが沢山あるからね。ふたりで切り抜けようじゃないか」

 残響に張り詰めた弓が震える。


「先ほどより正確に打てなさそうだ。手伝ってくれるかい?」

 紅運は額の汗を拭った。

「俺が囮になる」

 藍栄が頷き、螭吻の体表の目が四つ開いた。陰摩羅鬼が羽ばたく。

「正面から頼む」


 赤毛の男の下肢が炎を纏う。狻猊が素早く紅運の両脚を抱え、跳躍した。抗議する間も余裕もない。

「火が使えないなら」

 紅運は銅剣を握る。すれ違いの刺突は激音を立て、黒鉄の羽と火花を散らしただけだった。


「くそっ……」

 二本の矢が妖魔の首を逸れて墓石を粉砕した。精度は格段に落ちている。足場すら要せず狻猊が回転した。


 ––––藍栄は何故狻猊の速さを知って尚、背後を取れと言わない?

 紅運が顧みた先で、藍栄が最後の一矢を番えた。両の瞼は閉じている。

 ––––まさか。


 紅運は再び化鳥を見やった。

「狻猊、切り離された身体は火に変えられるのか」

 大魔は頷く。

 引き絞る音。命じる前に狻猊が地を蹴った。赤髪の旋毛を見下ろして念じた思考は口にせずとも伝わったようだ。


 陰摩羅鬼に追従して風が渦巻く。狻猊は減速しながら肉薄した。開かれた嘴の中と腐臭が迫る。

「俺の首に価値などあるか」

 紅運は銅剣を己を抱える妖魔に向けた。狻猊が空中で身を屈める。化鳥の嘴は虚空を啄んだ。攻撃の寸前、狻猊は紅運を上に放り投げている。

「命懸けじゃなきゃ何も––––」

 錐揉みされる紅運に視界に、唯一の標の如く伸びる男の手があった。

「できないだけだ!」


 振るった銅剣は狻猊の手首を狂いなく切り飛ばした。

 落下する紅運を狻猊が片腕で抱え、切断された己の肉を蹴り上げる。

 仰ぎ見た空に銀の一線が走った。

 矢は空中の手首を貫き、直進する。魔物の開いた口腔に飲まれる瞬間、手首が燃え上がった。嘴に絡む死人の髪が細く煙を上げ、青い光が薄く漏れる。

 轟音とともに陰摩羅鬼の半身が炸裂した。


 赤と青の炎が絡み、墓地に煙と腐肉の焦げる匂いが充満する。藍栄が悼むように目を閉じた。亡者の鳥は体の内外の炎に焼かれて屠られた。


 帰路の林道で紅運は息をついた。身体は汗と空気に溶けた油脂でべたついていた。紅運は脂で照る唇を舐める狻猊を呆れ交じりに見上げた。

「何とかなったな」

「当たり前だろ。俺が殺せない奴がいるかよ」

「敵じゃなくお前が何をしでかすか心配だったんだ」

「そりゃあこっちの台詞だ」

 狻猊は金の眼を細めた。


「お前はまともで大人しいつもりでいるかもしれねえが、普通は人間の姿の奴の手首を躊躇なく切り落とさねえよ。いかれてるぜ」

 答えに窮した紅運を見て、藍栄が声を上げて笑った。


「何にせよ、よくやってくれた。君たちの手柄だ」

 狻猊が舌打ちする。

「法螺吹きやがって。目がいいなんて大嘘じゃねえか。お前、盲だろ」

 藍栄は少しの間沈黙した。

「わかるかい?」

 紅運は首を垂れて肯定を示す。


螭吻ちふんの権能は眺望。ただ遠くを見るんじゃねえ。周りの生き物の視界を覗き見てんだ。だから、墓場の鳥たちがいなくなったら何も見えねえ。だから、俺たちの目を使うため正面から敵を討たせた。じゃなきゃ、どこに矢を撃てばいいかもわかんねえからな」

「全盲って訳じゃないさ。それに、市井は幾らでもひとの目があるから不自由しない」

「それで、あそこじゃなきゃ生きられないって言ったのか……」


「厭魅蠱毒さ。八つの頃やられて、髪だけじゃなく目も駄目になった」

 老人のような白髪が日に透けた。

「恨んでないかと聞いたね。私も人並みに恨みはあるさ。高熱に魘される中、視界が闇に食い破られるのがわかった。次起きたときが己の目で見る最後の景色だと悟ったよ。そのとき、誰かひとりでもいてくれたら許そう。誰もいなければ国も宮廷も家族も全て恨もう、と誓ったんだ」

「……それで?」

「枕元で突っ伏した白雄がいたよ。水晶玉のような目を真っ赤に泣き腫らして。刺客に備えて短刀を握って寝ずの番をしていたと後で聞いた。だから、私は恨んでないのさ」

 藍栄は目を閉じて笑った。


「玉座を争い傷つけ合うなんて本意ではない。他の兄弟も君も、同じじゃないのかな」

「でも、遺言で……それに……」

「始め吾が心己に之を許せり」

 耳慣れない言葉に紅運は戸惑う。

「古書の一節さ。ある男が名剣を持っていて、客人がそれを羨んだ。男は後日剣を譲ろうと彼を訪ねたが、客人は病で急死していたんだ。男は『始めから私は君に心を許していたのに』と悔やんで墓前に剣を備えた」

 藍栄は軽薄に笑った。

「思いは言葉で伝えなくてはね。間に合わなくなってからでは遅い」

 紅運は答えられず俯いた。目抜き通りの喧騒が漏れてきた。


 市場を抜けて戻った宮廷は常時より厳粛に思えた。錦虎の祭壇で、紅運は跪き、兄たちと向き合う。中央の白雄は静かに告げた。

「紅運、貴方の功績を認め、赤の大魔を正式に迎え入れます」

 跪いた紅運は目を見張る。黒曜石の床に反射した白雄と目が合い、微笑が返った。

 壇上から駆け下りた青燕せいえんが紅運の首に飛びついた。

「本当によかった。力になれなくてごめん」

 橙志とうしが眉を顰める

「お前は慎みを覚えろ」

 傍で黄禁おうきんが首を傾げた。

「兄上は行かなくていいのか。互いに斬首から救われたのだろう」

「誰が行くか」

 厳かな殿内の空気が緩む。青燕は泥と煤に構わず紅運を抱きしめた。

「やっぱり君はすごい奴だよ」

「青燕、苦しい」

「あ、ごめん」

 身を離した彼の衣に汚れが移っているのを見て、紅運は息をついた。



 夕刻の鐘が鳴る。藍栄が一足早く踵を返したのを白雄だけが見留めた。

「もう行くのですか」

「やるべきことがあってね。またすぐ戻るさ」

 白雄は完璧な横顔で微笑する。


「藍栄、貴方に感謝を。道中気をつけて」

「ああ、君も用心したほうがいい」

「それは、赤の大魔のことですか」

「違う、少し気掛かりではあるけれどね。何せ人型の大魔など例がない」

 はっとした白雄に歩み寄り、藍栄は彼だけに聞こえるよう囁いた。



「もっと恐ろしい敵が宮中にいるかもしれない」

 藍色の袍を翻し、ひとりの皇子が去る。夕陽と影が白雄の足元に伸びていた。

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