二章:一、傾国

 庭に敷き詰めた玉砂利に白い花弁が一片舞い降りた。

 白雄はくゆうは爪先で水面に触れるように花を避けて進み出る。背には蛇矛を携えていた。橙志とうしは花弁ごと地を削って踏み出した。


「真剣でよろしいのですか」

「構いません」

 珍しく顔に曇りを見せた弟に白雄は微笑む。

「重なる凶事に宮中は慄いています。今、皇子が憎しみも殺意も持たず真剣による鍛錬を見せることで、僅かでも不安を和らげることができるでしょう」

 橙志は鞘から剣を抜いた。白雄は右足を前にし、左手を添えるように蛇矛を構える。


「では、お手柔らかに」

「戯れを。殺す気でやらねば兄上とは勝負にもなりません」

 橙志は剣先を後ろに向け、二本の指で前方を指した。白雄と指との間を落花が過ぎる。静寂を激音が破った。無音の踏む込みで放たれた刺突を蛇矛の銅金が受け止めていた。

「善き技です」

 白雄が矛を回転させ、風圧が橙志の前髪を掻き上げる。橙志は矛の間合いに飛び込み、手首を返して水平の斬撃を繰り出した。清流のような蛇矛の捌きを怒涛の剣が攻める。


 紅運こううんは弾ける火花を遠巻きに見つめた。

 幼い頃、稽古を受けた兄の剣が、目で追うことすらできなくなっていた。今戦おうものなら、自分は剣を抜く間もなく切り刻まれるだろう。


「壮絶だな。何が起きているか全くわからん」

 急にかけられた声にぎょっとする。黄禁おうきんはでっぷりと太った白黒の猫を抱え、試合に目を細めた。

「城の大門の前でやって、出店なども出せばいい興行になるだろうに」

「見世物じゃないぞ」

「そうか? でも、楽しいぞ。俺は戦えないからな」

 紅運は呆れて溜息をついた。黄禁のように楽しめたらどれほどいいだろう。猫は剣と矛が立てる風に髭を揺らした。

「何で猫なんか連れてきた」

「庭先で見つけたんだ。愛らしいだろう」

「答えになってない」


 玉砂利を蹴る足音がした。駆け寄ってくる青燕せいえんの右手には四尺ほどの大蛇が握られていた。

「黄禁兄さん! 兄さんが軒に吊るしてた蛇の皮が風で飛んできたんだ。この前は寝てたら窓に鴉の頭がぶつかった」

「でも、呪術に必要な工程だぞ」

「隣に住んでる身にもなってよ」

 黄禁は抱えた猫を下ろし、言い聞かすように青燕の手を取った。


「骸に御霊は宿らん。怖がることはないぞ。それに、いつかお前が冷たい施政者になって俺の首を城門に晒しても怒らないから……」

「やる訳ないだろ! それで交渉できると思わないでくれよ!」

 自分があんな風に気兼ねなく話せたのは何歳までだろう。


 紅運は横目でふたりを見ながら、小さく声を出した。

「本当に呪いかもしれない。青燕、何か恨みを買ったんじゃないか?」

 しばしの沈黙に言ったことを後悔する。逃げ出したい衝動に駆られたとき、黄禁がくすりと笑った。

「皇子暗殺の疑いとは。俺の首が晒されるのはそう遠くないな」

「ふたりとも質の悪い冗談ばっかりだ!」

 青燕も笑顔を見せたのを確かめ、紅運は胸を撫で下ろした。


「ここにいると虐められるから逃げないとな」

 青燕は眉だけ怒った形にしながら裾の埃を払った。

「どこか行くのか?」

翠春すいしゅんに会うんだよ」

 史学や詩作に長ける教養人ながら部屋に篭りきり、母以外と会おうともしない第八皇子だ。


「遺言の解釈を頼んでたんだ。彼なら詳しいし門外に話が漏れる心配もないからね。ついでに、赤の大魔のことも何かわからないかなって」

狻猊さんげいの?」

「危険な奴だけど、大昔は普通に皇子に仕えていたんだろう? 安全に手懐ける術がないか調べておくよ」

 青燕は足早に去る。

 紅運が礼を言おうと上げかけた手をおろしたとき、鋼の音が途絶えた。稽古が終わったらしい。黄禁が再び猫を抱き上げる。


「俺も戻ろう。今日は久方ぶりに兄弟揃っての夕食だからな」

「葬式代わりの食事会だぞ。そんな楽しいものじゃないだろ」

もがり、だな。国に妖魔が溢れたのは父上の弔いが為されないせいではと、献杯の場を設けたと聞く。それで収まる事態ではないと思うがな」

 彼は当然のように呟いた。

「それはどういう……」

 紅運の問いには答えず黄禁は踵を返した。


 花降る中を白雄と橙志が横切った。

「流石の腕前でした、白雄兄上。俺も精進しなくては」

「此方こそ。何度かひやりとしましたよ」

「お戯れを。汗ひとつかいてらっしゃらないではないですか」

 すれ違う瞬間、橙志が視線をこちらに向けた。紅運は思わず俯いて避ける。再び顔を上げると、既にふたりは宮へと消えていた。



 紅運は池のほとりまで進み、深く息をついた。冗談ひとつにも身構える自分に気が滅入る。夕食でも誰とも話さず想像が容易にできた。

 覗き込んだ水面に、緋鯉より鮮やかな赤が一筋泳いだ。

 いつの間にか肩を並べていた狻猊を、紅運は水越しに睨む。

「存外、兄たちと上手くやってるじゃねえか」

「嫌味か」

 男は犬歯を見せてけたけたと笑った。


「貴人ってのは下の者に対しても優しいよなあ。一段下に見てるからこその余裕と慈悲だ。馬鹿にされるより辛えだろ、恨みで振り上げた拳を自分に下ろすしかねえのは」

「わかったような言い方を」

「わかるさ。俺は常に末端の皇子と一緒だったんだぜ」

 紅運は池に片手を突き入れ、映りこむ男の嘲笑をかき乱した。水面の炎と共に狻猊が姿を消す。一瞬、嘲笑にかすかな溜息が混じったように聞こえた。


 上げた紅運の鼻先で大輪の花のような薫香が膨らんだ。

「あら」

 一枝の花を携えた女が立っていた。鉄のような輝きの髪が風に揺れ、真っ白な肌が覗く。

りゅう皇貴妃……」

 紅運は呟いた。

 龍銀蓮。翠春の母で、何の後ろ盾もなく、寵愛のみで正妻に次ぐ皇貴妃まで上り詰めた彼女には不穏な噂が後をたたない。


「銀蓮で構いませんわ。翠春は外に出ないから、お部屋でも春がわかるように花を摘んでいたの。紅運様も散策に?」

 屈託のない笑みに野心の影は見当たらなかった。女が微笑むと、瞼に差した紅が黒曜の瞳をより濃く見せた。

「よく俺の名を……」

「存じているわ。妾は貴方が最も皇帝に向いていると思っていたもの」

 薄紅の唇が吊り上がる。一児の母とは思えない若さだった。


「何を言ってるんだ……」

「戯れではありません。生まれたときから全てを持つ者に下々の気持ちがわかるでしょうか。艱難辛苦を知る者こそ施政者に相応しい」

 紅運は目を逸らした。水面下で池の鯉が騒ぎ出す。


「陛下の弔いが遅れているのは何か事情があるのでしょう? きっとよくないこと。乱世が来るかしら」

 彼女は豊かな胸元に垂れた髪を払い、婉然と微笑んだ。

「それもいいわ。荒ぶる龍の上に立つ国に平穏など似つかわしくない。元より宮廷は蠱毒のようなものだもの」

 銀蓮が徐に手を伸ばす。身を引きかけた紅運の髪に冷たい指が触れた。

「皆が喰らい合い、最後に残る者が王になる。それはどなたかしら?」

 紅運の頭に乗った花弁を摘んで捨てると、彼女は踵を返した。後には花の香りだけが残っていた。



 ***



 真紅の窓帷を潜り、銀蓮は部屋を覗く。

「母上……」

 奥の暗がりで、彼女によく似た鉄色の髪の青年が身を竦めた。卓の上には、割れた花瓶が水と花々を広げていた。


「いいのよ、翠春。怪我はない?」

 彼は小さく頷く。

「よかった。指が傷ついたら大変だもの」

 銀蓮は翠春の手を取った。

「何もしなくてもいいのよ。貴方は妾の息子。それだけで特別だもの。でも、皆は貴方の価値に気づいていない。妾はそれが悲しいの」

 彼女は息子の白い手を頰に寄せる。漆黒の瞳が細く歪んだ。

「貴方はそう思わない?」


 机を濡らす水が朱塗りの漆を映し、血のように床に滴った。

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