二章:二、饗宴

 酒宴を催す及時雨殿きゅうじうでんの廊下は帯のように細く長い。


 窓の外、焼けた宮に被せられた白い布が死体袋のようだと紅運こううんは思った。



「困ります、殿下に大工の真似など」

 声の方を見遣ると、庭先で使用人たちが青燕せいえんの元に跪いていた。

「僕はできることをやるだけだよ。任せて」

 青燕は雨を乞うように天に手を伸ばす。絹の袖が滑り、白い腕の先が煌めいた。


 激流を束ねたような高圧の水が迸る。白布を吹き飛ばし、現れた宮の表面を奔流が駆けた。

 崩れかけた部分は水圧で削られ、未だ残る柱や梁は現れて黒い煤の下の金を覗かせる。人力ならばどれほどの手間が要るだろう。


 瞬く間に元の面影を取り戻す宮を、使用人は眩しげに見守った。

 及時雨、恵みの慈雨を指す語は青燕の綽名としても使われる。それは決してこの殿の隣に棲まうからだけではない。

 

 「火と水か、本当に真逆だな」

 紅運は呟いて門をくぐった。



宴の間には金の食器が食卓の朱が見えないほど並んでいた。

席の前に水菓子と皇子たちが名に冠する色の花が添えてある。既に到着していた白雄はくゆう橙志とうしが武芸について論を交わていた。


 紅運が紅い花の前に腰を下ろしたとき、入り口に見慣れない影があった。その傍らに銀蓮ぎんれんがいる。

「御免なさい。息子が心配で……同席してもいいかしら」


「困るぞ」

 背後から現れた黄禁おうきんが首を振る。

「今日は宴ではなく殯だ。納棺が済むまで儀式は皇子のみで行う。儀礼に異物を入れては綻びが出る」

 銀蓮は黄禁の空洞じみた瞳を見返す。


りゅう皇貴妃」

 割って入った白雄は不快を感じさせる前に慎しみ深い笑みを浮かべた。

「子を想う賢母なれば父の弔いを恙なく終えたい子の気持ちもお分かりのはず。どうか今だけ翠春を我々にお任せくださいませんか?」

 詩を諳んじるような声が言葉を紡ぐ。

「それに、貴女が参加した後凶事があれば貴女が責を問われてしまう。皇貴妃を流言飛語の的にしたくないのです」

 銀蓮は眦を下げた。

「よくわかりました。我儘を言ってしまったわね。息子を頼んでも?」

 白雄が「勿論」と胸に手をやる。


 花籠を揺らしたような香りを残して去る銀蓮の背を、黄禁と彼女の息子の翠春すいしゅんが見つめていた。



翠春は所在なさげに花を模した若葉の飾りの前に座した。不安げな顔を長い前髪が隠す。血管が透ける青白い肌だ。


「翠春!」

 青燕が駆け込み、迷わず翠春の隣に座る。

「会えてよかった。昼間訪ねようと思ったんだけど忙しくて」

 屈託のない笑みに翠春が曖昧に頷いた。


宴では皇太子を上座に、東には偶数、西には奇数の位を持つ皇子が並ぶため、第六皇子の隣には第八皇子が座るのが道理だ。

紅運は俯いた。知ってはいたが、唯一気兼ねなく言葉を交わせる青燕が遠く離れたのが心許ない。

目を逸らすと、隣で第七皇子の席に形だけ置かれた金の器が冷えていた。



 着飾った女官が冷菜と酒を運んでくる。湖面の様に透き通った燕の巣の湯と味をつけない鶏肉が並び、金の杯を酒が満たす。

「我らが父へ献杯を」

 白雄の声に皇子たちが杯を掲げ、紅運は喉を焼く酒を一気に煽った。


箸と匙を取る音が静かに響く中、青燕は椅子を寄せて翠春ににじり寄る。

「調べ物はどうだい?」

「まだあまり……」

 翠春は戸惑いながら話し出した。

「でも、伏魔伏国の一言は典拠がわかった。二百年前の講談を纏めた『龍久稗史』の序文。庶民が好む通俗小説だから皇帝が読むと思えないけど。それに、前々帝の頃の大火で国庫の文献の多くが焼失してるし」

 か細いながら堰を切ったように紡がれる言葉に青燕は頷く。

「充分だよ。君に頼んでよかった」

 翠春は口元を隠してはにかんだ。


新たな酒が注がれ、赤く照る羊肉が運ばれる。黙々と匙を運ぶ紅運にひとつ空けた隣席から声がかかった。

琴児きんじの具合はどうだ」

 冷菜を殆ど平らげた黄禁が身を乗り出していた。

「大分落ち着いたらしい」

「重畳。早く治るよう祈祷してやろうか」

「考えておく」


 紅運が迷う間に黄禁は再び食事に手をつけていた。

文武に通じていれば。そうでなくても臆せず話すか、沈黙に耐えられる強さがあれば。紅運は箸を弄ぶ。


給仕の女官が足を止め、一斉に黙礼した。

「献杯は終わってしまったかな?」

 頭髪と同じ白の長袍姿の藍栄らんえいが現れた。

「とうに」

 白雄は髪留めに手をやった。

彼が食事中に髪に触れるなど本来するはずがない。藍栄はそれだけで察したように迷わず紅運に顔を向けた。


「紅運、ちゃんと食べているかい?」

 紅運は手つかずの皿を見てはっとする。

「せっかくの宴だ、楽しまないと。市井の饅頭もいいけどやはり羊肉の質が違う」

 藍栄は羹を掬って笑う。紅運は湯気を立てる煮こごりを口に運んだ。


「紅運」

 低い声に紅運は匙を落としかける。正面を見据えたまま橙志が言った。

「伏魔殿から出土した銅剣は使えるのか」

「一応刃は錆びてない……」

 詰問するような口調に紅運はしどろもどろになる。

「ならば、使い手次第だな」


 藍栄が苦笑した。

「君は少し笑った方がいいな。誤解されやすいだろう」

「皇子が軽薄に笑う方が余程誤解を招くだろう」

 白雄が窘めるような視線を送った。


再びの静寂の中、翠春が口を開く。

「あと、赤の大魔のことだけど……」

「こっちの資料の欠落は意図的。先々代の白凰帝が焚書したと思う。使役した歴代の皇子の名前もほぼ消えてるけど『竜生九子遺事』にだけ記述が残ってる」

 蚊の鳴くような声に紅運は耳を澄ませた。


「龍に変身した皇帝を九人の皇子が討つ怪奇小説で、不敬だから禁書にされた」

「本当にすごい内容だね」

「それに白凰帝の弟で炎を使う皇子が出てくるんだ。名前は、紅雷こうらい

 紅運の杯の中で一抹の泡が弾けた。

「名字がある、臣籍降下……ってこと?」

「たぶん」


 酒の表面に次々と泡が浮かぶ。紅運は慌てて杯を掴んだ。

「国土を焼いた大罪人だから皇族から排除されたとか?」

「死人なら記録を消せば済むよ。追放の場合は与えられる姓は扇だし」

「屠姓を貰うのは出家した皇子。例えば、古代だと国が抱える道士の羅真大聖に弟子入りした……」


 酒は沸騰し、金の杯が溶岩の如く赤を帯びる。

狻貎さんげい!」

 紅運の押し殺した叫びに、杯が急速に熱を失う。

怖々と食卓を見回したが気づいたものはいない。紅運はすっかり冷えた蜜色の酒を睨んだ。


 殯が終わる頃、空には紫紺の帳が下りていた。女官たちに見送られ、皇子たちは長い廊下を進む。

青燕はまだ翠春の隣にいた。

「そういえば、翠春の大魔も見たことないな」

「見せるほどの物じゃないよ。貝みたいで地味だし……」


 紅運は窓の外を睨む。

酒を煮立てたのは狻貎に違いない。あの魔物の激情を掻き立てる、かつての主は。

「屠紅雷か」


 紅運が噛み締めるように呟いたとき、夜空に一条の光が走った。

流星より明るく大きい。


大きいのではなく近いのだと気づいたとき、飛来した火矢が及時雨殿の屋根に炎を振りまいた。

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