二章:三、砲弾煙雨

 白雄はくゆうは銀の簪を二度弾く。

 私用なら一度、緊急の有事なら二度。藍栄の目から光が失われて以来、ふたりの間のみでの符丁だった。

 藍栄らんえいは即座に白雄の視界を盗み、燃える屋根を見定めた。



「刺客か!」

 橙志とうしが先陣を切って外へ飛び出す。闇に炎の赤が線を引く空から降った矢に衛兵が次々と倒れた。

「殿下、危険です!」

 叫んだ兵士の喉に矢尻が迫る。橙志が落ちていた盾を投擲し、弾かれた矢が空中で砕けた。


「耳を塞げ」

 現れた釣鐘型の竜が顎門を開く。橙の大魔・蒲牢ほろうの咆哮が響き渡った。屋根上の影がたたらを踏む。

「そこか」

 藍栄が放った矢は黒衣を屋根に縫い止めた。刺客は裾を千切って屋根の向こうへ跳んだ。

「東へ逃げたぞ!」

 蛇矛を携えた白雄が駆け出した。

「藍栄と橙志は索敵を、青燕は鎮火を!」



 隅で立ち竦む翠春に銀蓮が駆け寄り、衣で包む。

「翠春、こんなところにいたの。早く逃げましょう」


 母子の背を見つめていた紅運は、肩を叩かれて我に返った。

「君も……」

 肩に手を置いた青燕は押し黙る。

 逃げろと言いかけたのだろう。炎の大魔は火の中で有利に働かない。それを告げれば傷つけると思ったのか。紅運は首を振った。


「刺客はまだいるはずだ。俺も行く」

 答えを聞く前に紅運は踵を返した。

狻貎さんげい! 上から探す。乗せろ」

 現れた炎の獅子が身を屈める。燃える毛皮に紅運を乗せ、狻貎が屋根に降り立った。下から青燕の声が響いた。


「任せたよ」

 首肯を返し、紅運たちは焼ける瓦の上を駆け出す。


 火の粉が星に光をまぶす空を見上げ、青燕は息を吸った。

「来てくれ、蚣蝮はか

 熱気が音を立てて白い湯気をあげ、水晶の如く輝く大魚が現れた。

「青の大魔は水を好む!」

 怒涛の白浪が火を押し包み、熱い大雨が散った。


 その飛沫を浴びながら紅運は地上を見下ろす。庇に隠れるように矢を番える影が見えた。

「狻猊!」

 魔物が短く吼え、咆哮が熱の波動となる。刺客は矢を向けることも出来ず、黒衣ごと焼かれ一層黒い炭と化した。


 空では藍栄の矢が飛び交い、地では白雄が大魔の強化した木々や御簾で防壁が築かれていく。

「おかしい」

 紅運は呟いた。

「皇子総動員でも手に余るほどの刺客が宮中にどう入り込んだ」

「誰かが手引きしたんじゃねえか」

 狻猊が低く笑う。燻る炭につい先日の動乱が脳裏を過る。


「戸惑ってるな。ついでに教えてやる。刺客は本当に刺客か?」

 謎かけのような言に紅運は眉を顰める。通過した壁を見ると、大魔に焼き殺された死骸があるべき場所には焦げた壁があるだけだ。

「幻術か……?」

 狻猊が喉を鳴らす。宮中全体を惑わすほどの術を使えるのは――。


 湯気の幕の先、侍従に伴われる黄禁おうきんが見えた。

「まさか……」

 紅運は疑念を払うようにかぶりを振る。

「銅鑼の元へ行け。宮中に報せる。黒勝こくしょうの件を繰り返してたまるか」


 左右の景色が飛び去り、龍を模した石台が近づく。

 銅鑼の隣には握った黄禁がいた。戸惑う紅運に黄禁は変わらぬ虚ろな笑みを浮かべた。


「お前も気づいて報せに来てくれたのだな」

「刺客は、幻術で……」

 紅運は言い淀む。

「紅運、報告は俺がやろう。お前は兄弟を助けてほしい」

「……わかった」

 赤の大魔は紅運を乗せ、再び空へ跳んだ。

 黄禁はそれ見送ってから桴を振りかぶった。


「宮中に告ぐ!」

 銅鑼の音に続いたのは、誰もが初めて聞く黄禁の大声だった。

「刺客の多くは幻術だ! 元凶たる道士を走査せよ!」



 鳴動が夜闇を震わすのを聞きながら、紅運は身を乗り出した。

 地上に黒衣の刺客と切り結ぶ橙志の姿がある。


 鞭のようにしなった剣を刺客が右に倒れて避け、同時に暗剣を放った。橙志は剣の柄で弾く。彼は片足で刺客の腹を蹴り抜き、蹴撃を放った脚を軸に刺突する。

 空気を震わす音響。

 貫かれたのは黒衣だけだ。頭巾を脱ぎ捨た刺客が赤い唇で怨嗟を告げた。


「女か」

 迷わず剣を握り直した橙志の頬を円形の斬撃が掠める。

 壁に研ぎ澄まされた円月輪が刺さっていた。剣先は女に向けたまま、橙志は後方に視線をやる。

 軒先に影が揺れた。

「二対一か……」


 向き直りかけたとき、後方から迫る白壁が見えた。大波が刺客を絡め取り、激流に飲み込む。

「二対二だ!」

 青燕が橙志に並んで剣を構えた。


 刺客の女が口角を上げる。

「及時雨か。最も慈悲深く、最も甘い皇子だな」

 黒衣が翻り、背後を過ぎった女官を捕らえた。先の宴での給仕の娘だった。橙志が剣を振るより早く、女が捕らえた女官の首に刃を突きつけた。


「剣を捨てろ」

「捨てる振りをしろ。その隙に俺が」

 囁きかけて橙志は弟の横顔を盗み見る。瞳は怯える娘を注視していた。


「お前の狙いは僕たちだろ! 彼女は関係ない!」

 優越に笑む刺客は微かな水音に気づかない。


「本当は使いたくなかったんだけど……殺すなら、僕から殺せよ!」

 黒衣の顔面から水が噴き出した。

 緩んだ手から逃げ出した女官が叫ぶ。

 刺客は涙と唾液、顔中を蛇のように暴れる己の体内の水に溺れていた。


「体内の……水も使うとは……」

 刺客が大量の水を吐いて倒れた。青燕は目を伏せた。橙志が息も絶え絶えの女に縄をかけ、言った。

「侮ったな。優しいと甘いは違う。青燕は他人の為なら誰よりも苛烈になるぞ」

 そのとき、両端から黒衣の群れがふたりの皇子に押し寄せた。


「橙志と青燕が囲まれている」

 紅運は狻猊の首を引いた。

「幻覚の敵と戦い続けたら消耗するだけだ。地上に降りてくれ!」

「助ける気か? 青いのはお前に構ってたからな」

 狻猊は足を止めてぐるりと紅運を見上げた。


「奴ならお前が保身を選んでも責めねえだろ。尤も死人に口はないか」

「青燕が死んだら、俺はそんな兄すら私欲で見捨てた奴になる」

 ――それに、橙志にもまだ借りがある。

「なら、今命を賭ける方がマシだ! 鳴け!」


 紅炎が黒衣の群れを舐め上げる。骨まで砕く熱で幻惑は跡形もなく消えた。陽炎の中に紅運と大魔は降り立った。


「紅運!」

 目を輝かす青燕の傍で橙志が怒鳴る。

「何故来た!」

 紅運は身を竦ませ、すぐにかぶりを振った。

「俺も皇子だからだ」


 頭上が暗く翳った。

 橙志が咄嗟に青燕の襟首を掴み、残る手で紅運を突き倒す。

 地面が柔らかい。覆い被さった兄の肩越しに紅運は影の正体を見た。それは空に蓋するほど巨大な二枚貝だった。


「何、だ……?」

 我が目を疑う間に貝柱が伸縮し、紅運たちが寝そべる下殻めがけて上殻が閉じられた。辺りが完全な闇に包まれた.

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