二章:四、喧嘩囂躁
頰に感じる床の冷たさと震動に、
「よかった、気がついたんだね」
「状況はよくないがな」
先程まで倒れていた床はひび割れ、地面の黒が覗いていた。宮殿のようだが、朱塗りの支柱は折れ、天井が傾げていた。赤の帳と蜘蛛の巣の白が織物のように交錯して垂れる。
「廃城か……?」
「誰もいないし、どこまでも広間が続いて出口がないんだ。いつここに運ばれたかもわからない」
窓の格子に差し入れた青燕の指は透明な壁に弾かれた。
紅運は気を失う前の光景を浮かべた。
兄に庇われ、地に倒れた。驚いたのは、奇妙な大貝にだけではない。橙志が自分を庇ったこともだった。
「橙志兄さん、これも道術が見せる幻かな?」
「恐らくな。大魔も呼び出せない。己の技で戦うしかなさそうだ」
狻猊はいない。紅運は腰に帯びた銅剣を見る。
――これで戦える訳がない。救われた命の使い所もないのか。
「あのさ、ここに来るとき」
青燕がおずおずと口火を切った。
「大きな貝の化け物を見たんだ。紅運も?」
紅運は頷いた。
「その、貝みたいな大魔って、」
地響きが声を掻き消した。
廃城を掴んで揺らしたような轟音に三人は身構える。支柱がひしゃげ、埃と壁の破片が舞う。闇を切り取った黒い大犬が姿を現した。
「
未だ鮮明な黒の大魔の面影に紅運は目を見張る。視界の隅で青燕が鼻白むのが見えた。赤の帳を鼻先で押し上げ、大犬は唸りを上げた。
「退がれ!」
大犬が振り下ろした爪を橙志の剣が弾く。黒い魔物は唯一白い眼を充血させて吠えた。青燕は顔面蒼白のまま動かない。
「戦わないなら離れてろ!」
ふたりは漸く剣を握る。紅運の突きは硬い毛皮に阻まれ傷ひとつつけられない。次いだ青燕の斬撃も鼻先を掠めたのみだ。黒の体躯が震える。
「来るぞ!」
橙志が言い切る前に視界が急に明るんだ。大犬から口から放たれたのは、炎だった。
「何!?」
火炎が三人を分断し、熱と光が五感を奪う。燻る煙で橙志が見えない。
「紅運、無事かい?」
噎せ返る青燕の声がした。
「あぁ……」
己の指先も霞む闇を探ると手が触れた。暗がりと黒の巨獣は見分けがつかない。
紅運は青燕の手を握り、銅剣を突き出しながら進んだ。
「兄さんは平気かな」
「橙志なら大丈夫だろ」
弱々しい笑みが返る。紅運の手の平に汗が伝わった。これほど怯えた青燕は見たことがなかった。
「僕、あの犬を知っているんだ」
「俺だって知ってる。黒勝の……」
青燕は首を横に振った。
「昔、珍しく翠春と一緒に、父上に鷹狩りにつれていってもらったとき、御林に野犬が迷い込んでたんだ。翠春を見るなり襲い掛かってきて……水をかけて追い払うつもりだった。でも、水が犬に絡みついて、鼻と口から噴き出して……、翠春が怯えた目で、犬じゃなく僕を見てた」
「青燕……」
彼は汗ばんだ手をそっと解いた。
「僕も黒勝みたいになっちゃうのかな」
「何言ってるんだ」
「いつか、僕も力に溺れて……」
闇の中月に似た白い光が灯った。
死角から大犬が前脚を振り下ろす。紅運は振動で壁に叩きつけられた。歪む視界に身の丈ほどの爪が迫る。
「紅運!」
咄嗟に割り込んだ青燕が肩から血が流れていた。
「青燕……」
紅運は駆け寄って、彼の肩に手を触れた
「何……?」
「確かに黒勝と同じだ」
丸い瞳が小さく揺れる。
「あいつも俺を頼ってくれた。内容はろくでもなかったけどな」
青燕は唖然として口を開け、それから息を吐いて笑った。
「そっか」
紅運は彼に手を貸して立たせた。
闇色の毛が逆立ち、大犬が構える。
「ごめん、全力は出せなさそうだ。僕が囮をやる」
紅運は何か言いかけた唇を結んで頷いた。
廃城の天井が軋み、赤の柱を小枝のように薙ぎ倒して大犬が突進する。
青燕が傷口から離し、剣を手に駆け出した。
上体を反らせ、滑るように犬の腹の下に潜り込む。突き上げた刃が黒い腹を一文字に掻いた。
紅運は疾走した。
狙うは下からの衝撃に反った喉笛。銅剣を振りかぶったとき、巨獣が慟哭した。
柔らかな喉が来るはずの眼前に鋭い上下の歯がある。
肩と背の肉を抉る激痛。
「くそっ……!」
紅運は止まらず、敢えて跳躍した。
――橙志の剣を思い出せ!
紅運は身を捻り、勢いに乗せて刺突を放つ。銅剣が喉より柔い口蓋を突き抜け、鼻面から血濡れの鋒が飛び出した。
「形だけだな、睚眦はもっと恐ろしかったぞ!」
「睚眦……そうか!」
悶絶する黒犬の腹から抜け出た青燕が叫ぶ。
「わかった、こいつの正体は」
巨獣の全身が火を噴いた。
業火は崩れかけた廃城を迸る。言葉の続きを聞こうと身を乗り出したとき、足元に亀裂が入り、紅運は奈落に吸い込まれた。
***
「呼吸は正常、眠っているだけです」
兵士が組んだ即席の担架には橙志、青燕、紅運が乗っていた。
「毒でしょうか」
「三人を相手取る手練れならば即死の毒を仕込まない理由がないな。この様態なら食事に痺れ薬を盛ったか……」
白雄は小声で藍栄に囁いた。
「敵は宮廷にいると言いましたね」
藍栄は彼の肩を軽く叩く。
「刺客を捕らえれば吐かせることもできる。今は黄禁の言う通り道士を探そうじゃないか」
背後に過った気配にふたりは視線を交わした。
次の瞬間、白雄の蛇矛が両端でふたりの刺客を穿ち、後に忍び寄る影を矢が貫いた。黒衣は闇に溶けて塵と消えた。
「やはり幻術ですか」
「しかし、減っている。黄禁が抑えているようだ」
駆けつけた禁軍の兵が膝をついた。
「申し上げます。橙志殿下が倒れる寸前、巨大な貝の魔物を見たとの報告が多数」
「確かですか」
二枚貝の魔物は第八皇子が従える緑の大魔と同義だ。
「黒勝に次いでまさか……」
藍栄は眼を細めた。
絶句する白雄が気づいていない人影が視界にある。忙しないが的確に人影を探る視線は狩りに慣れた者だ。
「白雄。誰かがいる、錦虎殿の上だ」
藍栄は耳元で言った。
「迷っているかい? 刺客に吐かせた情報が弟の離反を裏付ければ、と」
白雄は伏せた目を上げ、藍栄を見返した。
彼の視界には瓜二つの顔が映る。白雄は口角を上げた。
「証拠が揃いすぎている場合まず罠を疑うべき、でしょう?」
藍栄は肩を竦める。
「信じるためにはまず疑わなければ。下手人を捕縛し、吐かせます」
「皇帝らしくなったじゃないか」
二子は同時に地を蹴り、錦虎殿へ駆け出した。
屋根瓦を矢の雨が叩いた。這うように隠れていた刺客は回転して避ける。黒衣の男は矢の飛来した方を睨んだ。
「随分目がいいな」
「そうとも」
白雄と藍栄が、瓦の先と向かいの宮殿の屋根に各々飛び降りた。
「あちらが弓兵か」
刺客は縄鏢を放った。蛇の如くうねる縄が宮殿の屋根へ伸び、弓兵を牽制する、はずだった。一直線に放たれた矢が刺客の手甲を弾く。
「馬鹿な」
正面に弓を構える影。
弓兵がこれ程近距離を取るはずがない。ならば、向こうの影は。
ばん、と瓦が弾けた。
月に蛇矛を携えた男の影が映る。
白の大魔の権能は僅かの間、周囲に重圧を押し付け、体重などないかの如く飛ぶことを可能にする。
白雄にはその間だけで充分だった。
矛の銅金が黒衣の背を叩き、押さえ込まれた重力を放出する。巨人に押し潰されたように刺客は屋根に伏した。
「お見事」
降り立った白雄に藍栄が頷く。壮絶な重みに耐えながら男は呻き、懐に呑んだ匕首を投擲した。死角からの攻撃が藍栄に迫る。刃が閃く寸前、藍栄が姿を消した。屋根から落ちる藍栄を、重力で加速し先に降りた白雄が受け止める。
「油断は禁物です」
「其の通りだ。助かったよ」
藍栄は苦笑した。重責は上方にいる味方の緊急退避にも応用できる。
駆けつけた兵が男を捕縛した。
「生け捕りにしたはいいが道士ではないな。どうする?」
「そこからは、俺が」
道服を風になびかせた黄禁がいた。
「まず、魔物の正体がわかった。あれは
「蜃、ですか」
白雄は黄禁の言を繰り返した。
「蛤形の魔物だ。奴の吐く気はひとが怖れる悪夢を見せ、幻の楼に閉じ込める。道士はそれを呼び出したのだろう」
「文献で知っていたけど見たことはないな」
藍栄が顎に手をやる。白雄は静かに息をついた。
「つまり、緑の大魔ではないのですね」
「その誤解も織り込み済の計画だろうね。三人は蜃の中で戦っている、ということかい?」
黄禁は頷いた。
「ともかく俺が残ってよかった。俺にできるのは戦いではない、殺しだからな」
そう言って、彼は兵の後を追った。
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