二章:五、因中有果
地に縄囲いが四角に張られ、四つの篝火が焚かれている。
中央に転がされた黒衣の男女がいた。捕縛された刺客のふたりだった。
男女は這ったまま顔を上げた。
「祈祷師か……?」
「皇子だ。お前たちが狙ったのと同じ」
黄禁は独り言のように呟く。
「捕まってよかった。贄はひとが至上だからな。それに、獣を使うのは哀れだが、咎人ならば呵責は要るまい」
冷たい声にまだ若い男が震える。精一杯の虚勢か、女が嘲笑した。
「脅しか。皇子に拷問ができると思えんな」
「脅さない。だが、自ら吐く」
黄禁の空洞じみた瞳に光が過ぎった。風もなく篝火が燃え盛る。
「我は天子の形代。天子に代わり呪いを受ける木偶……」
黄禁は男の頭に手をかざした。
「己の名を言え」
男の瞳から光が消えた。
「
譫言のように唇が動く。
「では、其処の女は」
「
「何を……!」
もがく女を余所に黄禁は両手を重ねた。
「西慶、巧奴。お前たちの命を代償に呪殺を打つ」
男女が糸が切れた傀儡の如く倒れた。
黄禁の掌が石臼で粉を挽くように擦り合わされる。篝火の炎が捻れる。
「そこか」
黄禁は手に力を込めた。
***
弟たちの姿はない。
剣を振るったが、床を打った反響は障害にぶつからずどこまでも伸びた。
橙志が舌打ちしたとき、目の前に巨大な扉が出現し、音もなく開いた。
広がったのは見慣れた宮殿の一室だった。
床の上で少年が陸に上がった魚のようにもがいている。
傍に茶器が転げていた。黒髪を振り乱す子どもは
幼い
「待て!」
男が振り向きざまに殴りつけ、橙志は倒れた床に爪を立てる。下手人の背が瞬く間に遠ざかった。
封じ込めた記憶に、忘れていた恐怖が蘇る。
皇子とはこれほど弱いのか。
握りしめた拳から血が滴る。総白髪になった兄は笑って橙志の額の傷を案じたときも血が滲むほど拳を握った。
怖いではない。憎いのだろう。
橙志は己を奮い立たせる。
憎かった。兄を殺そうとした者が。害されても尚笑う兄が。弱い己が。
橙志は扉を蹴破り、真っ直ぐ部屋の奥へ駆けた。
橙志は立って駆け出した。
近づいた男の顔が驚愕に満ちる。
剣が鳴り、男の首を斬り飛ばす。血煙が天井まで噴き上がった。
この光景も知っている
男は藍栄の世話係だった。ふたりの皇太子を排したい官吏に囁かれ、銀一封と引き換えに毒を盛った。
捕らえられた男は藍栄の情に縋ろうとした。
嘆願が兄に届く前に父や刑部の制止を押し切り、橙志自ら共謀者共々男の首を刎ねた。
返り血を浴び、橙志は誓った。
優しい笑みは侮られる。命を狙っても許される、と。俺は何にも怯えず、何時も笑わず、最も強く恐ろしい皇子になろう。
優しい者が笑っても殺されぬ時が来るまでは。
橙志は剣を握り、扉を蹴破った。
***
夢幻の中の楼閣が軋んだ。
奈落に落ち、闇の中を彷徨っていた
足を進めると、丸穴の向こうから貫録のある声が響いた。
「今一度考え直せ。為損じれば死よりも酷い結果が待つぞ」
穴の先には冠を目深に被り、玉座に座す男がいた。
背後には七人の影が控えている。相対する男は、罪人のように床に額ずいていた。
「よいのです。兄上」
紅運に背を向けて跪く男は顔を上げた。束ねた癖のある黒髪が揺れる。
「私には文武の才もなければ民を想う寛大な心すらない。この申し出も奏上する間も、己の知る父母や兄弟と僅かな侍従の顔しか浮かばなかった矮小な者です」
自嘲の笑みを浮かべたのだろう、男の肩が揺れた。
卑屈さの滲む声が自分に重なり、紅運は唇を噛んだ。
「この機を逃せば皇子の責務を果たすことは生涯ない。どうか私に邪なる龍を討たせてください」
冕冠の男は溜息をついた。
「
紅運は息を呑む。かつて赤の大魔を使役した皇子。
紅運は思わず穴を抜けて駆け寄った。
「紅雷!」
垣間見た横顔は誰かに似ていた。
炎の幕が紅運を阻んだ。
巻き起こった火が王宮の幻影を溶かしていく。業火の中に紅運は迷わず手を伸ばす。その腕を何かが掴んだ。
掠れた笑い声が聞こえた。
「炎かよ。上手く使ったもんだ。俺への恐怖は皇子たちに染みついてるからなあ。だが、どっかの命知らずには通じなかったようだな」
紅運の手を掴んだ男の燃えるような赤毛が広がる。
「狻猊!」
地響きが轟き、天井が裂ける。
頭上に星月夜が広がった。
「何故お前がここに」
「妙な皇子もいたもんだ。お前の兄貴が道士に呪詛返しを打ってやがる。お陰で俺も滑り込めたみてえだな」
「紅運!」
鋭い声に振り向くと、血塗れの青燕の前に立ちはだかり剣を構える橙志の姿があった。
「その男は……」
「狻猊、俺の大魔だ」
橙志が訝しげに睨んだが、すぐに正面へ向き直った。ずるりと地を這う音がする。月光の下、割れた地を舐めるように巨大な龍が身を現した。
「恐らくあれが本命だ」
橙志が剣先で指した龍の奥に二本の白い柱がある。
歪な天蓋を頂く様は貝殻を支える貝柱のように見えた。
橙志は短く言った。
「青燕は戦えない。お前はどうだ」
紅運は銅剣を握りしめた。
「戦える」
「なら、合わせろ」
狻猊が低く笑い、煌々たる炎が龍の巨影を照らした。
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