二章:六、與子同仇

 炎の膜を黒い影が貫通した。



 狻猊さんげいの放った業火を抜け、龍の腕が橙志とうしの剣を掴んだ。

 龍の口が光を帯びる。

「橙志!」

 紅運こううんが叫ぶ前に橙志は身を捻って避けた。閃光が彼のいた場を貫き、闇が融解した。



 龍の爪が空いた胴を狙っている。紅運は庇うように剣を振った。

 激しい衝撃に後退る。


 龍が旋回したと思った矢先、風を切る音がした。

 回避ではなく重量に任せた攻撃だと気づいたときには帷子じみた鱗の尾が迫っている。



 紅運の背後からの一閃が尾を弾いた。

 避けた瞬間、剣を持ち替えていた橙志の一撃は体重を乗せ鱗を砕く。

 破片が月光を反射した。



 龍が今度こそ距離を取り身を屈める。

 雷光が放たれるまで悩む間もない。

「狻猊!」

 声に呼応した火炎が円形に紅運を取り囲む。龍の電撃が炎の壁に衝突して炸裂した。



 火花と炎熱の向こうに龍が垣間見える。

「硬えな、生半可じゃ焼き殺せねえ」

 狻猊の呻きに、橙志の舌打ちが重なった。

 先の刺突で散ったのは鱗だけではない。橙志の剣が乱杭歯のように砕けていた。



 ––––結局守られてばかりだ。狻猊の炎すらも効かない。

 頰に汗をかく紅運に大魔が囁く。

「賭けるか? 最大火力なら効くかもしれねえぞ。後ろの奴も炭になるけどな」

「またお前は……」


「やれ」

 橙志が短く答えた。

「俺の剣はもう使えない。ここで全員死ぬよりお前と青燕せいえんだけでも生き残る方が利がある」


「何、言ってるんだ」

 唖然とする紅運に見慣れた無表情が返った。

「あんたが死んで利なんて……」



 龍が再び身を地に這わす。飛翔か電光か。

「やれ!」

 橙志の怒号に赤い魔物が嗤う。


「狻猊……火を……」

 紅運の震える声を轟音が遮った。跳躍しかけた龍の上に崩れた天井が落下する。

 瓦礫が降り注いだ。



 ***



 地に影を伸ばす篝火がぞろりと蠢く。

 黄禁おうきんの両鼻から血が滴った。


「まだ抗うか……殺す者同士、俺は命懸けだというのに往生際の悪い……」

 道服は汗を吸って鉛の重みとなる。黄禁の掌が磁力を生むかのように反発した。


「これ以上兄弟を減らすものか……この指程度、くれてやる」

 黄禁は手を打ち鳴らす。骨が折れる鈍い音がした。



 ***



 夢幻の楼閣の支柱が次々と折れていく。



 間断なく降る瓦礫を避ける龍に攻撃に転ずる暇はない。

 紅運は銅剣を握りしめた。


「撹乱を、頼みたい」

 橙志は僅かに眉を上げ、頷いた。


「狻猊」

 紅蓮の獅子が鼻先を上げる。

「炎を俺の剣に集中させろ」

 銅剣の塚を握る手が滑る。汗ばんだ掌を腹になすりつけて紅運は息を吸った。



 一際巨大な瓦礫が落ちたのを境に崩落が止む。

 龍が跳躍に備える。


 兄弟は視線を交わし、地を蹴った。

 同時に橙志が蹴り上げた瓦礫が宙を舞い、飛翔の寸前の龍を掠めた。


 首を捻った龍の真下に切っ先が待ち構えている。綻んだ剣は龍の片目を裂いて完全に砕けた。

 轟く咆哮が舞い散る刀身を震わせる。



 鏡面の如き破片全てが赤を映して金碧輝煌と輝いた。

 身を転じて避ける橙志の背を踏み台に、紅運が跳ぶ。

 ––––刺突だ。橙志のように全体重を一点に掛けろ。



 残る龍の眼球に銅剣を振り抜く紅運の姿が迫り、炎が膨らんだ。


 刀身に火炎を帯びた刺突から一条の赤が伸びる。凝縮された炎は龍の眼球から頭蓋までを穿ち、穴から脳漿とともに業火が噴き出した。

 龍の全身が発火した。



 闇を赤光が焼き払う。

 陽炎の中、赤毛の男が呆れて笑う。残像が何かに重なる前に冷気が紅運を撫でた。



 落ちんばかりの星空を遮る楼閣はない。

 担架の上で目を覚ました紅運を黄禁が見下ろしていた。


「目覚めたか」

「橙志と青燕は……」

「無事だぞ。道士は死骸で見つかった。尋問はできないな」

 黄禁は血に塗れた顔で頷き、弟の額に手を当てた。


「よく戦った」

 冷たい指が青黒く変色しているのを見ながら、紅運は意識を手放した。



 皇子たちと禁軍が動乱を鎮めたため、さほど被害は広がらず、廷内は普段の様相を見せていた。

 独り池の淵を眺める紅運もまた変わらない。


 優雅に泳ぐ魚を眺めながら、紅運は幻の中で見た狻猊のかつての主に想いを馳せていた。

「まるで俺のようだったな」



 及時雨殿きゅうじうでんからそれを見るふたつの影がある。


「声をかけたらどうだ」

 傷も癒えた青燕は橙志を見上げた。

「奴も珍しく働いた。労ってやれ」

「兄さんは?」

「俺よりお前のが気安いだろう」


 青燕はふと息をつくと、窓から身を乗り出した。

「紅運!」

 池の滸の紅運が顔を上げる。

「橙志兄さんが話があるって!」


 目を見開く橙志を置いて、青燕は颯爽と廊下の隅へ逃げ出した。

 窓の外では困惑気味に紅運が佇んでいる。橙志は舌打ちしてから、長い廊下を歩み出した。



 目の前に来た橙志の視線に紅運は目を逸らす。


 長い沈黙の後、兄が口を開いた。

「稽古を怠ったせいだな。お前の剣は未熟だ」

 紅運は俯いた。再びの沈黙。


「わかってる。用がそれだけなら……」

「稽古をつけてやろうか」

 思わず橙志を見ると、新しい剣の柄にやった手が忙しなく動いていた。

 紅運は乾いた喉で絞り出す。

「頼む」



 木剣を手にふたりは向き合った。

 何年振りだろうか。妖魔を前にしたように身が竦む。


 橙志は一礼し、構えた。

「来い」

 紅運は固唾を飲んで駆け出した。


「遅い!」

 振り下ろした剣は下方から払われる。


「腰が引けているぞ! 」

 息つく間もない連撃に紅運はたたらを踏む。

「目を閉じて敵が見えるか!」

 怯んだ紅運の肩を剣先が打つ。重い痺れが走った。



 猛攻の合間、辛うじて開く目で橙志の剣を追う。

 ––––まともにやって敵うはずない。


 紅運は身を逸らし、袈裟斬りを躱した。弾かれた木剣が飛んだ。

「遊びのつもりか!」

「まさか」


 弧を描いたはずの剣は空中で直角に曲がり、高速で紅運へ飛来する。たじろいだ橙志の目に剣を推進する炎の軌道が見えた。

「赤の大魔の––––」


 一瞬、橙志の反応が遅れた。間隙を縫った紅運が死角に潜る。

「戦のつもりだ!」



 木剣が橙志の腕を打つ寸前、紅運の身体が宙に浮いた。

 見えたのは晴天、突き出された木剣、はっとした兄の顔。

 事態を飲み込む前にどぼんと音がし、視界は澄んだ水と慌てる魚と水泡に飲み込まれた。



 紅運は襟首を掴まれ、落ちた池から引き上げられる。

 水を吐いて噎せ返る紅運を橙志が見下ろしていた。


 濡れた服の上から刺す風が針のように冷たい。

 顔を上げられずにいる紅運の隣に橙志は腰を下ろす。



「覚えているか。お前が稽古に来なくなったのも、俺が池に落とした日からだ」

「忘れたかった」

 掠れた声に橙志は鼻から息を漏らした。


「わざとではない」

 紅運は視線を動かし、橙志の横顔を見た。

「普段は手加減していた。だが、あの日も今もそれができなかった。危ういと思ったからだ」

 切れ長の瞳が紅運を見返す。

「続ければ伸びる」



 橙志は立ち上がった。

「ここだけの話、剣なら俺は白雄はくゆうより強い。俺に勝てないからと腐るな。あの白雄に勝とうと思うか」

 桃の花が一片足元に落ちた。


「刀は百日、槍は千日、剣は万日、己との戦いだ。続けられるか」

 紅運は顔を上げ頷いた。

 橙志の口角が微かに上がる。微笑は翻った布に隠れた。



 急に衣を被せられた紅運がもたついていると、遠くの青燕の声がした。

「何で話し合いなのに剣を持ってずぶ濡れなんだよ!」


 風が吹き抜け、紅運を覆う橙志の上着がはためいた。

「剣は万日か……」

 万日より遥か遠い所に求めるべきものがある。

 姿も見えぬ敵。未来の玉座。そして、古に国を焼いた大罪人の皇子。



 紅運は風の中の宮殿に目を細めた。

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