三章:一、転遷

 満目荒涼たる荒野を一台の馬車が進んでいた。



 強い日差しを弾くため屋根と覆いを白く塗った軒車だ。

 貴人が乗るべき豪奢な車から男が顔を出した。


「もっと急げないんですか?」

 若くして国境付近の監察を担う按察使あんさつしまで上り詰めた烏用うよう。文人らしい長髪と白い肌は熱砂の洗礼を受けて乾いている。



「いいよ、急がなくて」

 鷹揚な声に、烏用は片眼鏡の奥の眼を歪める。

「皇帝が崩御なさったんですよ!」

「だからさ、今行ったら絶対忙しいじゃないか。全部終わってから着けばいいよ」


 隣で伸びをする青年こそが第四皇子・紫釉しゆうだった。


 褐色の肌に吊り気味の紫紺の瞳は、龍久国の東南の遊牧民の血の表れだ。

 異国の姫君の母の後ろ盾だけでなく語学と通商才を持ち、外交に携わる皇子は、野心をまるで欠いていた。


「今こそ貴方の手腕で夷狄を抑えなくてどうするんです? 何故王宮を嫌うんですか」

「だって、俺の真上と真下は橙志とうし黄禁おうきんだよ。両方おかしいじゃないか。いると疲れるんだよ。それに……」

 紫釉は俯く。

「あの国、何か気持ち悪いんだよな」


 声は細く、烏用の耳には届かなかった。

「貴方に就く私の身にもなってくださいよ。これじゃ永遠に出世が望めない」

「それが本音じゃないか」


 紫釉は窓を開け、熱風に漆黒の短髪をそよがせた。

「いっそこの辺の娘と結婚しようかな。皇位なんて冗談じゃない」

 空の青に黄色を一筆刷いたような荒野は連綿と続いた。



 ***



 弾かれた木剣が宙を舞った。


 無手となった紅運こううんの首筋に鋭い鋒が突きつけられる。

「今日で三度死んだな」

 橙志とうしは低く呟き、木剣を収めた。

「体幹がなっていない。体術も学べ」



 数年の空白は実力の差をさらに広げた。

 ––––これでは寝ずに稽古しても追いつかない。

 暗澹たる思いで玉砂利に刺さった剣を引き抜く紅運に橙志が言った。


「お前は狻猊さんげいに乗って戦うのか」

「それが多い」

 橙志は弟の爪先なら頭まで視線を巡らせる。


「なら、南の武術を学ぶべきだな。南拳北腿、南では拳法が、北では足技が発達した。何故かわかるか」

 紅運は思考を巡らせた。沈黙と視線に息が詰まりそうになる。


「北の民族の方が脚が長い、とか……」

「違う。北は山岳地帯だ。地に足をつけて戦える。だが、南は運河が多く、揺れる船上で蹴りは使えない。だから、拳での戦いが主流となった」

 橙志は目を細めた。

「全ての物事には理由がある。忘れるな」

「はい」


 紅運は力強く頷き、剣を構えた。

「もう一戦」

「しない」

 橙志は不意に背を向けた。

「間も無く服喪の儀だ。着替えない気か」


 狙ったように鐘の音が鳴った。

 重なる凶事は皇帝の魂が未だ荒ぶるためとの噂が宮中に広がり、鎮魂のための祈祷に皇子たちが立ち会う儀礼が行われる。


「忘れていた……馬鹿だな、これじゃ子どもだ」

 紅運が溜息をついたとき、宮へと進んでいた橙志が急に足を止め、振り向いた。


「その意気は良い。まだ意気だけだが」

 紅運は剣を取り落とし、再び向けられた兄の背に一礼した。



 白い喪服に袖を通す。

「きつくはありませんか」

 衣を持つ琴児きんじの腕には赤黒い火傷の痕が残っていた。

「まだ休んでいればいいのに」

「何の、これが愚老の生き甲斐なのですよ」

 琴児は紅運の襟を整え、祈るように布地に触れると、小さく微笑んだ。紅運は僅かに口角を上げて応えた。



 紅運が桃の香漂う庭に出ると、青燕せいえんが池の淵に屈んでいた。

「いい加減出ておいでよ。僕が怒ってる訳ないじゃないか」

 水面には魚影しかない。


「何してるんだ」

 青燕が顔を上げる。

蚣蝮はかが拗ねて出てこないんだ。この前僕を助けられなかった、狻猊は入れたのになぜ自分は、って」


「そりゃ俺は別格だからな」

 紅炎が揺らぎ、紅運の隣に赤毛の行者が並んだ。

「水芸しかできねえ大魔とは訳が違う。拗ねたところで––––」

 水面から放たれた水鉄砲が狻猊の額を打った。紅運はぎょっとしてずぶ濡れの男を見る。


「クソ鯨もどきが」

 狻猊が犬歯を剥き出し、水面が泡立った。

 湯に変わる池から大鯨が飛び出し、狻猊に相対した。


「蚣蝮!」

 攻撃に転じようとした青の大魔に青燕が飛びついた。

「やっと出てきた。心配したんだよ」

 水晶じみた鱗を撫でられ、蚣蝮は戸惑ったように喉を鳴らす。

 狻猊の舌打ちが響いた。


「わざと煽ったのか?」

 囁いた紅運を狻猊が睨む。

「意外と身内想いなんだな」

「知るか」

 赤毛の男が消える。残る陽炎に紅運は苦笑した。



 錦虎殿きんこでんには皇子だけでなく皇妃や皇女も集っていた。



 頭ひとつ抜けた長身は、橙志の姉にして国軍左将軍の妻・香橙こうとう公主。彼女は弟の前を悠然と歩いている。


「姉上、公の場で皇子の前に立つのは……」

「二度も廷内で襲撃が起きています。今が三度目にならぬと言えますか。私が盾になるのは当然です」

 香橙は弟に似た太眉と鋭い眦を向けた。

「ですが、俺の面目も考えていただきたい」

「首が落ちては立てる顔もないでしょう」



 犬のようについて行くしかない橙志の後ろで、武骨な黒眼帯で顔左半分をほぼ覆った女が叫んだ。

「黄禁! 何ですか、その汚れは。先刻着せたばかりでしょう」

「猫がいてな。最近餌をやっている。母上にも後で見せよう」

 答える黄禁の指はまだ包帯で覆われている。

「猫はいいのです! こちらを見なさい。枯葉までつけて……」


 皇妃だが後宮に入らず、神儀に携わる道妃どうひ。畏怖と嫌悪を向けられる女呪術師の影は今はない。



「道妃があんなに楽しそうなのは初めて。仲良しなのね」

 江妃こうひが嫋やかに微笑む。

「あの方の笑顔も見てみたくてよ。黄禁様と一緒にいれば笑ってくださるかしら」

「楽しいのとは別じゃないかな。ずっと一緒にしたら鼻血出して倒れそうだし……」

 権力闘争から退いて安寧に暮らす妃の明朗さと慈愛は、息子の青燕に受け継がれていた。



 女たちの中で唯一、褐色の皇女がいた。

 兄と同じ、上等な鞣し革の如き黒髪と肌を持つ紫玉しぎょくは所在なさげに佇んでいた。


「息災でしたか、紫玉」

 名の通り白皙の皇太子に声をかけられ、紫玉は表情を綻ばせる。

白雄はくゆう様、お陰様で」

「紫釉が不在の間は不自由でしょう」

「全然、兄はいないようなものですから」

「困り事があれば何時でも」

 白雄は微笑を残し、殿へと進んだ。



 紅運がそれに続こうとしたとき、薫香が一際強くなりこちらへ倒れた。

 思わず支えた掌に柔らかな重みが走る。


「御免なさい、最近目眩がして」

 銀蓮ぎんれんが婀娜な笑みを浮かべた。肌は普段より青白く、目の下が微かに黒い。


「どこか、具合が?」

 銀蓮は離れるどころか紅運の胸に更に身を預けた。

「だって、殯をしたのにあんなことがあったでしょう?翠春すいしゅんは疑われて寝込んでしまったし、妾は眠れないわ。本当に皇子の誰かが……」


「流言はお止めなさい」

 道妃が残る片目で鋭い視線を投げていた。

「件の呪いは天子の血族のみを閉じ込める高等な呪術。なんじょう皇子が己も侵されずに使えるでしょう」

 黄禁は無言で母の傍にいる。


 銀蓮がそっと身を引いて笑った。

「そう。ならば安心ね」

 髪が紅運の喉を伝い、離れた。


 去りかけた銀蓮の肩を細指が掴んだ。

りゅう皇貴妃! 大変、お顔が真っ白だよ、私に掴まって。気つけにお湯を持ってきましょうね」

 戸惑う銀蓮を江妃が否応なく連れて行く。道妃は呆気にとられてそれを見送った。



 喧騒は錦虎殿に入った途端、自ずと静まった。

 中央に件の大火の煤を被った黄金の棺が鎮座していたからだ。

 死して尚絶対の権威を放つ皇帝を背に、白雄は立った。


「花発けば風雨多し、人生別離足る。花散らす風雨の如く別れは常なるものですが、宮を襲った二度の凶事はさしずめ嵐と言えるでしょう。その所以を未だ成されぬ陛下の魂に求めるのは」


 白雄の踵が棺に触れ、振動で蓋が揺らいだ。

 瑕疵を確かめるため顧みた彼の表情が凍りつく。

 白雄はすぐに向き直ったが、瞳孔は微かに震えていた。


「些か憚られますが、鎮魂を要するのは勿論……」

 途切れかけた言葉を藍栄らんえいが遮った。


「皆勝手知る仲、長い挨拶は不要だろう? 晏眠が必要なのは父上だけだ」

 一同がひっそりと笑い、橙志姉弟だけが眉を顰める。

 白雄は目を伏せて微笑んでから締めくくった。

「謹んで哀悼を」



 祈祷は恙なく執り行われた。

 服喪の儀が終わり、皇妃や皇女が殿を後にする中、藍栄が白雄に歩み寄った。


「先の弔辞はどうした。らしくないじゃないか」

 白雄は沈鬱に首を振った。

「皇子を集めてください」



 六人の皇子が棺の前に集う。煙の匂いが有るか無しか、焦げ跡の残る棺からたなびいた。


 白雄は不安げな弟たちを見渡し、

「どうか今から見るものは内密に。これは私にも成すべき術が浮かびません」

 棺の蓋に手をかけた。

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