三章:二、変貌

 白雄はくゆうは棺に手をかける。

 焦げ跡が栄耀栄華の象徴たる黄金を曇らせていた。

 重い蓋が傾いた。



「嘘だろ、何だこれ……」

 青燕せいえんが声を震わせる。

 そこには確かに天子の玉体があった。横たわる半身は細かな刺繍の死装束が左衽で着せられている。


 陛下のもう半身は黄金の鱗で覆われていた。


 玉鋼の鎧の如き輝きは尊顔まで伸び、歪に破れた怒れる龍の面を被せたようだ。

 皇帝の亡骸は化生に変容していた。



「変貌だな。始龍しりゅうの呪いか」

 絶句する兄弟の中、黄禁おうきんが口を開いた。

「龍脈の満ちる国を収める天子はその身に龍の力を受け続ける。魂が旅立ち箍が外れた今、亡骸は注がれる力に侵され魔生と化す。不敬だと廃れた迷信だが、かつてはそう信じられていた」


「では、次の皇帝を決め亡骸を葬るまで収まらないと?」

 白雄の問いに黄禁が頷く。


「いつまでも隠し果せないな。猶予は如何程か、父上が変わり果てたらどうなるか……」

「御託は不要。解決策は」

 藍栄らんえいの呟きを橙志とうしが遮った。


 燭台の焔が光の帯を伸ばし、棺の縁を舐めた。

 蒼白な顔を赤く染めた黄禁が兄弟を見据える。

「迷信が信仰であった時代、国仕えの道士が国葬を執り行い、遺体の穢れを祓ったと聞く」

「古代の道士など今何の力になる」

「まだ望みはあるぞ」

 黄禁は眼を歪めて笑った。

「かの道士とは今も尚不老不死の仙人と謳われる、羅真らしん大聖たいせいだからな」



「羅真大聖」

 そう繰り返し、白雄は首を振る。

「伝承によれば彼が棲まうのは龍久国りゅうくのくにの最果ての霊峰。一縷の望みの為皇子が赴くには遠すぎる。使者を遣るにしてもこの凶事を明かす必要があります」

 沈鬱な溜息が殿に満ちた。


 重みを増した空気に抗うように痩せた手がそっと持ちが上がった。

「俺が行く」

 皇子たちが一斉に紅運こううんを見た。


「俺は火急の仕事もない。欠けても一番支障がない皇子だ。それに」

 紅運は手の震えを抑えて声を張り上げる。

「羅真大聖は、おそらく狻猊さんげいの昔の主が弟子入りした相手だ。何か手がかりがあるかもしれない。頼む、宮廷に禍は持ち帰らないし、万一の責任は己で取る」

 紅運は項垂れるように頭を下げた。

「行かせてほしい」


 首筋を啄ばむような兄たちの視線に紅運は目を瞑る。暫くして振ったのは長兄の静かな声だった。

「霊山は按察使すら赴かない未踏の地。何があるかわかりませんよ」

「覚悟の上だ」

 白雄が細く息を漏らした。


「……ひとつ約束を」

 紅運は薄目を開ける。

「無事帰ることです」

 皇太子は見慣れた穏やかな微笑を浮かべていた。紅運は顔を上げ、確かな首肯を返した。



 羅城に触れる空の裾は仄かに緋を差していた。

 紅運は身を震わせる。

「狻猊は……来ないか」

 夕刻の冷気に炎の気配はない。


 まだ冬の残る風に女の白い裾がそよいだ。

紫玉しぎょく

 衣との対比が鮮やかな褐色の皇女は紅運を見留め、一礼する。

「何をしてたんだ」


 紫玉は答える代わりに風に触れるように手を伸ばす。

 微かな羽音がし、宙を舞った一羽の鳥が細い指に止まった。驚く紅運に紫玉は小さく笑った。


「西方では伝書鳩の代わりに鸚鵡を使うこともあるそうです」

 赤を基調とした七色の鳥は忙しなく首を動かす。

「紫釉との通信か?」

「そのはずですけど、兄は常に移動しているから殆ど使えません。鳥が居場所を見つけられず帰ってきてしまう」

 鸚鵡を撫でながら紫玉が首を振った。



「お珍しいですね。お散歩ですか」

 紅運は肩を竦めた。

「私もこの子の調教以外あまり出ないんです。混血のなんて他にいないから居辛くって」


 自嘲気味に笑った紫玉は紅運の沈黙を不快ととったか、慌てて手を振る。

「すみません、私と一緒なんて不敬でしたよね」

 鸚鵡が空中へ逃げ出した。


「いや、違うんだ」

 鳥の散らす羽根に阻まれながら紅運は紫玉を引き留める。

「紫玉は語学にも通商にも通じて第四皇子の留守を守ってる。俺とは全然違う」

 紫玉は目を丸く見開いた。


「でも、最近は頑張ろうと思って……紫釉のようには行かないけど、俺も明日から宮廷に出る」

 絶え絶えの声を聞き終え、紫玉は袖を口元にやって噴き出した。

「驚きました。私の想像と全然違う方ですね」


 紅運は曖昧に笑う。

 鸚鵡が旋回し、紫玉の指に戻った。

「羽根が重くなっている。雨になるのかも」

 薄絹のような雲が夕陽に伸びていた。



 宮殿を針の雨が静かに打ち始めた。


 篝火を移す雨だけが輝く庭を、上三人の皇子は煙管を手に眺めていた。


「降り始めましたね」

 火皿からなびく煙を夜景に吹きかけ、白雄は呟く。全てが真鍮製の長い煙管は栄華の象徴だった。


「服喪の儀は完璧とはいきませんでしたが」

「何の、我々以外は完璧だったと思っているさ」

 藍栄が細い煙を吐いた。


「紅運は変わったね」

「ええ、大魔を従えてから」

「大魔はただの発端。奴を変えたのは己自身だ」

 橙志は煙管の羅宇を弾いた。

「気概に技量が追いついていないがな」

「相変わらず手厳しい」

 ふたりの兄は微笑した。



「しかし、少ないね」

 藍栄は火皿で煙草盆を叩いた。

「皇妃さ。我々の中で母が存命なのは青燕、黄禁、翠春すいしゅんだけ。後宮も今や寂しいものだ」

 煙が夜に霧をかけ、三人は押し黙る。


 白雄は立ち上がり窓へ向かった。

「凶事はいつが起こりだったのやら」

 空だけが天子へ哀別の涙を垂らしていた。


「そういえば、黄禁は?」

 この場に彼の姿はない。

「儀礼の後、道妃に呼ばれていたが……」



「黄禁、先の襲撃は何たる様です」


 緋の毛氈一枚敷いた床に座し、母子は向かい合っていた。

「何故下手人を生け捕りにしなかったのです。死人は何も吐きません。お陰でお前にも疑いが及んだのですよ」

「だが、長引けば兄弟が危なかった」


 道妃どうひは眉間に皺を寄せた。

「お前は大局が見えていません。昔、蠱毒の瓶を壊し、虫を逃したこともありましたね。呼んだ侍従が忙しいから待っていろと言ったら、その間お前は愚直にも鶏舎で遊んで待っていました。あのときは第二皇子暗殺未遂の直後だったというのに!」

 鋭い語気にも黄禁は虚ろな笑みを絶やさない。


「何がおかしいのです」

「母上はよく俺のことを覚えていてくださる。俺の死後もこうして思い返してくれるのだろうな」

 道妃は眼帯に覆われた顔を歪めた。



 雨の音が激しくなる。

「母上、俺は後どれほど生きられる」

「二年です。禁術を続けるならば。今すぐやめれば幾らでも生きられますが、その気はないのでしょう」

 黄禁は目を細めただけだった。


「二年の内に事は片付くだろうか」

「わかりません。ですが、その時が来ればお前は真っ向から敵と戦うことになる。命の保証がないのは同じです」


 篠突く雨に黄禁は視線をやった。

「俺は呪術師だ。命は惜しくないが、前はもう少し皆といたいと思っていた。だが、今は兄弟が分かたれ骨肉の争いが起こるのを見る前に死にたいと思っている」



 道妃は深い溜息をついた。

「お前は誰より呪術の才を持ち、誰より呪術師に向きません。情が深すぎる。何を想って生きようと、我々が最後に吐くのは呪詛なのですよ」

 黄禁は僅かに目を伏せた。


「宜しい、お前の命はお前の好きに使いなさい」

 道妃は裾を払って立ち、窓の竹細工に手を触れた。

「仕上げは私がします。子を失った母の恨みに勝るものはないのだから」



 囁いた言葉は軒を打つ雨音に掻き消された。

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