三章:三、出立

 出立の日の朝、未だ夜明けの色を残した空の裾が羅城に触れていた。



 遠くで銅鑼の音がする。音階は高く低くなり、典雅な音楽にも似た。

 音の大魔を使役する皇子の率いる大軍は、音響による指揮で末端までの伝令を可能にしていた。

 高音が鳴る。意図は左翼に展開せよ。


 未明に響く荘厳な音は毎朝、紅運こううんを苛むように感じたが、橙志とうしから稽古を受ける傍、音の意味する内容を教わってからは己を鼓舞するようにも聞こえる。


「昔は煩いだけだと思っていたのにな」

 朝方の冷気に吐き出すように呟く。

 明け方の庭には紅運以外に人影はない。

 後少しすれば官吏たちが朝礼のため現れ始めるだろう。



 束の間の静寂に耳を澄ますと、微かな音がした。

 庭木の下、毛氈の如く敷かれた桃の花弁に道服の衣が重なっていた。


黄禁おうきん!?」

 紅運が駆け寄ると虚ろな目が開く。

「何故こんな場所で寝るんだ」

 頭や肩に積もった桃花を払うと、黄禁は曖昧に笑った。


「猫に餌をやるのを忘れていてな。探していたんだが……」

 頰は蒼白、首筋は汗で花弁が貼りついている。病人の様相だ。

「どこか悪いのか……」

「まさか。昨夜寝るのが遅かっただけだ」

 黄禁は泥を払って立ち上がる。ふらついた足がたたらを踏んだ。

「秘密にしてくれるか?」



 紅運が何も言えず僅かに頷くと、脛に柔らかな感触が触れた。丸々太った白黒の猫が擦り寄っていた。

「そこにいたのか」

 黄禁が抱き上げると、猫は従順に喉を鳴らす。


 痩せた腕が猫の重みに耐え得るのか。不安げに見上げた紅運は黄禁と視線が合い、慌てて逸らした。

「……猫の名は?」

「まだない。橙志の部屋の前で見つけたから橙志とつけようとしたが怒られた」

「当然だ」


 呆れる紅運に猫が身を乗り出して鼻を近づける。

 手で制すと柔らかな毛並みが指に触れた。

「名付けてくれるか?」

 血色の悪い顔で黄禁が尋ねる。己が戻るまで兄は息災でいるのだろうか。


「帰るまでに考えておく」

「では、待っていよう。無事で帰れ」

 黄禁は微笑むと猫を抱えて去っていった。後姿が細く頼りなかった。



 皇子皇女たちの目様めが近い。洗面用の湯を沸かす女官が忙しなく廊下を進むのが、朝靄で水墨画の中の光景のように霞んだ。


 湯の香りに混じって強い芳香が香った。

「紅運様」

 鉄色の髪が靄に溶けるように靡く。銀蓮ぎんれんが袖を抑えて小さく手を振った。


「随分、早いんだな」

「殯の後から息子が夜中に目覚めてしまうのよ。恐ろしい夢を見ているんだわ、可哀想に。妾がいないと寝付けないの」

 銀蓮は嫋やかに目を伏せる。子の話をしていても一児の母と思えぬ面差しに翳りが見えた。


「でも、紅運様が祈祷してくださるなら安心ね」

 霊峰・泰山へ紅運が向かう名目は加持祈祷ということになっていた。

「ああ、憂いを除けるよう祈ってくる」

 銀蓮は目を細めると、紅運に歩み寄った。



「安心なのは紅運様もかしら。宮廷にいるより最果ての霊峰の方が安全だもの」

 意図を取り兼ねて紅運は眉を顰める。


「陛下が身罷られてから凶事続きだわ。それは本当に祈りで除けるものかしら」

 艶やかな唇から白い呼気が漏れた。


「紅運様を侮っているのではないわ。ただ、この国は神ではなくひとの力で良くない方へ導かれている気がするの」

「どういう意味だ」

「貴方は陛下の御兄弟に会ったことがお有り?」

 紅運は口を噤んだ。古くは軍や六部にも王弟がいたと聞くが、皆長子の白雄はくゆうが生まれるより早く儚くなっている。


「古書をとぶらおうと、天子の同胞が永く国に仕えた記録はないのよ。まるでただひとつの玉座以外皇子の座る席はないよう。それは天の定めかしら、ひとが定めたものかしら」


 銀蓮は宝珠のような眼を向けた。

「そうだわ。古代には外遊していた末端の皇子だけが戦火を免れ、玉座に着いた例もあるの。もし、貴方が霊峰を訪ねる間……」



「俺は」

 紅運は吸い込まれそうな瞳から目を背けて首を振る。

「不甲斐ないがまだ国のことはわからない。だから、何も言えない。ただ、破滅に向かうとしても俺にできることは全部しておきたいんだ」

 底知れぬ輝きを持つ瞳孔が引き絞られた。

 髪と頰の柔らかな線の中で、眼光は鉱物のように硬く紅運を穿つ。


「本当に、お変わりになったのね」

 銀蓮は口元に袖をやり、柔らかく笑った。

「お気をつけて」

 道中か、それ以外か。紅運は尋ねられなかった。



 第九皇子の見送りは少ない。


 琴児きんじと数人の女官、公務を抜けて訪れた青燕せいえんとその侍従だけが門の前で構えていた。

 祈祷に邪念を持ち込まないよう、俗世との関わりを減らす名目もある。そんなものだと紅運は思う。



 用意された馬車は軒車の中でも最も速度に重きを置く追鋒車だった。

 車輪には龍の文様が描かれ、横木の軾には雲海の彫刻が成されている。


 疾く辿り着き、疾く帰る。

 白雄は見送りにいないものの、彼の用意した馬車からその想いが読み取れた。紅運は小さく笑う。



 見送りの者たちと挨拶を交わし、黒絹の天蓋が付いた輿に身を滑り込ませたとき、鋼の擦れ合う重い音がした。


「出立か」

 低い声に、紅運は輿の窓を開ける。

 早朝の稽古を終えた橙志が鎧を纏ったまま立っていた。黒い帷子は体温を吸って微かな湯気をたなびかせている。


 橙志は窓に近づき、手首を軽く振った。

 輿の中に小さな何かが投げ込まれ、紅運は危うく取り落としかけながら空中で掴む。


 手の中には鋼を薄く叩いて伸ばしたような雫型の耳飾りがあった。無機質で武骨なそれは皇子におよそ相応しくないだけでなく、ひとつしかなかった。


「餞別だ」

 窓の外を見ると、橙志の右耳で同じ耳飾りが揺れていた。

「銅鑼と同じ、俺の大魔の力を込めてある。声までは叶わずとも音響程度なら伝わる」

 橙志が己の飾りを爪で弾くと、紅運の手に載った片割れにも重厚な振動が伝わった。



「鳴らすのは万一の時のみだ。『今すぐ都に帰還せよ』は二度、『決して戻るな』は三度だ。三度鳴らしたら次二度鳴るまで何があろうと帰還するな」


 鋭い眼差しを紅運は見返す。

 ––––宮廷を災禍が襲う見立てがあるのか。そのとき、俺は戻って戦わず、逃げろと言うのか。

 橙志は視線を返すことなく、顎を引いた。


「そして、もしお前が窮した際、万策尽きたのであれば二度鳴らせ。こちらから助けを送る」

「……わかった」

 紅運は耳飾りを耳朶に取り付けた。冷たいはずの鋼は微かに熱の名残りがあった。


「使わず済むのが一番だがな」

 橙志はそれだけ呟いて輿の窓を閉めた。引き締めた口元が笑顔の代わりなのだと最近わかった。



 御者が馬に鞭打つ乾いた音がし、軒車がゆっくりと進み出した。

 川の水を破るように、御者の背を境に左右の城郭の光景が瞬く間に後ろへ流れていく。


 風を切って走り出した馬車の中、紅運は座席に頭を預けた。

狻猊さんげい

 答えはない。ただ紅運以外誰もいない輿にじわりと染み出すような熱が広がった。



 霊峰・泰山。そこにはかつての狻猊の主が師事した神仙がいる。

「お前が語らなくても探しに行くぞ。お前のことも、それ以外の真実も全て」



 紅運が向かう霊山を押し隠すように、空には死者の灰の色をした雲が重く垂れ込めていた。

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