三章:四、背燭共憐深夜月

 紅運こううんを乗せた追鋒車は城郭を出て、霊峰・泰山へ向けて走り続けていた。



 羅城は車輪が回るたびに高速で後ろへ流れ、空を隔てる白亜の壁はいつの間にか黄金の稲穂に変わる。

 やがて森に変わる頃には木々と空も間が曖昧になる程全てが黒く染まっていた。



 御者と馬を変えて尚走る車の窓から紅運は外を眺めた。

 光のない夜を見たのは初めてだった。龍久国は宿や酒屋、妓楼が夜通し明かりを灯していた。宮中ならば寝ずの番の兵士たちが火を絶やすことなど有り得ない。


 天蓋のような森の間から僅かに挿す月光以外に何の光もない道は、皇帝の威光すらも届かない場所に来たと感じさせる。


 道端に腐れた農具が打ち捨てられていた。

 もしここに生まれて、皇帝も宮も天上のことも変わりない生涯だったら、己はどんな人間になっていただろう。



 紅運は耳飾りに触れてから、座席に頭を預けた。

狻猊さんげい、そろそろ出てこい」

 火花が散り、手元すら見えない輿の中を微かに照らした。

「暗闇でひと恋しくなったか、坊や」

「ひとが恋しくて化け物を呼ぶものか」

 狻猊が歯を見せて笑う。闇に慣れた目に炎のような赤毛が眩しかった。



「お前は羅真らしん大聖たいせいにあったことがあるんだろ」

「まあな」

紅雷こうらいに伴われてか」

 狻猊は視線を逸らした。


「彼は、どんな皇子だった」

 紅運の問いに赤毛の男は天を仰いだ。溜息と共に陽炎が揺蕩った。

「お前に似てるかもな。末端の皇子ってのはそんなもんだ。皇位は永遠に回ってこないくせに、何よりも凶悪で強大な大魔を持たされてやがる。劣等感と無力感で拗れた心に皇帝を殺せる炎、そりゃ参るだろうよ」



「彼はそれで国を焼こうと決めたのか?」

「まさか。結局そうなったけどな」

 狻猊が吐き捨てる。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。

「奴は逃げたのさ。国が今みたいに傾きかけたとき、手前の命で事を収めようとしやがった。生き地獄から逃げて、最後に自分の命に価値があったと証明したかったんだろうよ。馬鹿な奴だ。生きて価値がねえもんが死んで変わるかよ」


「彼は、死んだのか?」

 狻猊は肩を竦めた。

「そのときお前は何をしていたんだ。彼と一緒にいたんだろう?」

「守ってやらなかったのか、ってか?」

 輿が跳ねる。

 紅運の頬を風圧が掠め、真横に突き出された腕が座席に沈み込む。

 獅子が獲物に食らいつくように狻猊は紅運に屈み込んだ。


「坊よ、皇子なら知ってんだろ。大魔は皆、始龍の落とし子だ。皇帝を暗殺できた皇子がいたか? 親に立ち向かって勝てる訳がねえ」

 金の眼が月光も届かない天鵞絨張りの輿の中、爛々と光る。

「お前と屠紅雷は始龍と戦ったのか……?」

「ああ、そうだ。結果はご存知。俺は龍に奪われ、狂ったまま国を焼いた。名もない無能な皇子は国賊として名を残した。最高だろ?」


 鼻先に触れる赤い髪が炎熱を帯び、煙が細く漏れた。

「歴史と違う。屠紅雷は謀反を起こした訳じゃない。咎人として誹られる所以はないじゃないか」

「わかってねえな」

 狻猊が吼え、輿が再び跳ねた。充満する熱に息が詰まる。


「歴史は勝者が作る。木っ端が死力を尽くして戦いましたが負けましたなんて歴史は要らねえんだよ。全部皇帝の手柄にしちまえば国は纏まり、強くなる。それ以外に何がある?」

 金の双眸が湖月のように揺れる。紅運はそれを見上げながら呟いた。


「お前も、諦めたんだな。太刀打ちできないものを知って」

 目を見開く大魔に悪夢の中で見た床に叩頭く皇子の姿が重なる。

 あれは、狻猊にとっての悪夢だったのではないか。



 狻猊が身を引いた。同時に周囲の熱が消えた。

 怒りも冷めきった表情で呆れたように男は首を振った。

「わかったような口聞きやがる」

「わからない」

 紅運は目を伏せた。

「俺は大魔を持てない自分が嫌だったんだ。大魔を持っている苦しみは知らなかった。わかると軽々しくは言えない」


「やっぱり似てねえや」

 吹き込んだ夜風がさらう座席に狻猊は肘をついた。

「奴は死んで役立とうとした。お前は捨て身だが生きる気はあるみてえだしな」

 指先が嚆矢のように紅運を指した。

「それに、真っ当な奴は独りで龍に突っ込んだり、城を焼いたり、化けモンとはいえ人型してる奴の手首を躊躇なく斬り飛ばしたりしねえ。お前は立派にあっち側だぜ。イカれた兄貴たちと同じかそれ以上だ」


 眼の前で炎が爆ぜ、狻猊が姿を消した。

 辺りには熱の名残りと、光を探す眼に痛いほどの濃い闇だけが残っていた。


 紅運は輿の外に目をやり、冷えた夜風を頰に当たる。

 都の灯りが届かない森の奥底も、月光は隔てなく照らしていた。



 目蓋の裏に挿す光に、紅運はいつの間にか眠っていたことに気づく。

 追鋒車の振動は止まっていた。


「紅運様」

 御者が輿の扉を開ける。

「ここからはおひとりで、とのことです」



 紅運が降車すると、湿った灰色の霧が死人の肌の温度でまとわりついた。

 辺りを見回すと、剣のような峰が切り立った山々の朧げな輪郭が浮かぶ。

「これが、霊峰か……」


 追鋒車が悪路の泥を蹴立てて去る音だけが靄に染み渡った。

 その姿が消えるまで見つめた後、紅運は急勾配の坂を進み始めた。



 靴の裏に砂利が噛みつく。宮廷で味わったことのない鈍痛が踵に沁みた。紅運は荒い息を吐きながら足を進めた。


 白一色の中に赤が揺らぎ、狻猊が見下ろす。

「辛そうだな、背負ってやろうか?」

「思ってもないくせに」

 紅運が差し伸べた手を振り払うと男は笑う。

「気張れよ。屠紅雷はひとりで登りきったぜ」


 靴に血が滲んでいた。紅運は足を止め、千切った服の裾を靴底に詰める。

 残りの布地を土踏まずに巻いたとき、琴児きんじの小さな足が浮かんだ。

「琴児はあの足で朝から晩まで廷内を駆け回ってたんだ。俺が止まれるか……」


 立ちかけてよろめいた紅運の腕を、狻猊が掴んで無造作に引き上げた。

 普段の嘲笑に一抹の慈悲を感じる金の瞳に紅運は戸惑う。



「そこにおわすのは第九皇子、紅運様か」

 声が思考を打ち切った。


 霧に溶け込む白髪と白髭を蓄えた、白い道服の老人が立っていた。

「皇太子殿から伺っております。お迎えに上がりました」

「貴方は……」

 老人は手を組み、恭しく礼をした。

「愚老が泰山に住まう世捨て人、俗世では羅真大聖と呼ばれております」

 紅運は息を呑む。狻猊は犬歯を見せるように笑った。



 老人が現れた途端、霧は瞬く間に薄くなった。

 黒く濡れた坂道を老人に伴われて進む。


「貴方が本当に……?」

「何、小説稗史では面白おかしく書き立てられておりますが愚老は大層なものではありません。今は湧き出した妖怪退治をするだけ。掃除夫と変わりませぬ」

「ここにも妖魔が?」

「ええ。皇帝陛下の下、鼓腹撃壌の作りを楽しんでいたのですが最近は如何とも……」

 老人が背を揺らして笑う。狻猊も喉を鳴らした。



「狐狸の類から、頭のみで飛ぶ魔生、生き死人。果ては巨人までおりました。吸血巨人といって、仙人と見まごうような顔でひとを洞窟に誘って退路を塞ぎ、生き血を啜る魔物です」

 老体とは思えない足の速さに紅運は慌ててついていく。

「あの、俺は貴方にそれを相談しに来たんだ。各地で妖魔が湧き出した所以と、これから起こる凶事について……」


 紅運は歩みを止めた老人の前に回り込む。

「そうだ、昔俺と同じ大魔を連れた皇子が貴方に師事したはずだ。ほらこの……」

 老人は目を丸くした。

 赤毛の男は含み笑いのまま何も答えない。

「狻猊、赤の大魔だ。覚えがあるだろう」

「はて、彼はひとではないのですか」


 紅運が目を見開く番だった。

「覚えてないのか」

 老人は首を捻るばかりだ。

「不老不死の仙人なんだろう?」


 狻猊が一層低い声で笑い出した。

 呆然とする紅運を挟んで老人と大魔が見合う。

「俺はそいつを見たことねえぞ」

「どういうことだ……」

 老人の目から光が消える。狻猊は牙を剥き出し、指をさした。

「そいつは俺の知る羅真大聖じゃねえ」



 霧が更に薄くなった。

 視界を覆う白が黒に変わる。坂道を辿っていたように思えた傾斜は、魔物の喉内のような洞窟に変わっていた。


 老人の身体が震え、徐々に膨らんでいく。

 轟音が鳴り響き、一条の光が消えた。靄に混じって砂礫が飛び、洞窟の先を大岩が塞いだ。

 先程の老人の言葉が脳裏を過ぎる。

「吸血巨人……!」

 ––––皇子の命を狙う者たちがいる。末端の俺でさえも。



 老人の背丈は遥かな天蓋に届くほどまで膨らんでいた。

「狻猊!」

 何故早く言わなかったと叫びかけた言葉を飲み込む。

 ––––こいつはまだ俺を試してるんだ。

 紅運は無意識に耳飾りに伸ばしかけた手を下ろし、銅剣の柄にかけた。


「何か言いかけてなかったか?」

 深く息を吸い、見下ろす狻猊に視線を返す。

「ああ……思い返せば、俺とお前ふたりきりで戦ったことはなかったな。いつも兄たちと大魔がいた」

 金の瞳に映る己が震えていないかを確かめた。


「お前の実力をまだ見ていない訳だ。いい機会だから今試す」

 狻猊は満足げに笑う。紅運は剣を抜いた。

「行くぞ、失望させるなよ」



 洞窟を火炎が舐め、円形の炎が闇を縁取った。

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